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ニコライ・エジョフ

ニコライ・イヴァーノヴィチ・エジョフロシア語: Никола́й Ива́нович Ежо́вラテン文字表記の例Nikolai Ivanovich Yezhov, 1895年5月1日 - 1940年2月4日頃)は、ソビエト連邦政治家1936年から1938年まで政治警察・秘密警察であるNKVDの長を務めた。国家保安総委員。ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、数多くの人民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

ニコライ・エジョフ
Николай Ежов
生年月日 (1895-05-01) 1895年5月1日
出生地 ロシア帝国サンクトペテルブルク
没年月日 1940年2月4日(1940-02-04)(44歳)
死没地 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
所属政党 ソビエト連邦共産党
配偶者 アントニア・チトーヴァ(1919年1930年
エヴゲーニヤ・フェイギンブルク[1]1930年1938年
子女 ナターリヤ(養子)
サイン

在任期間 1936年9月26日 - 1938年11月25日

ソビエト連邦
国家保安総委員
在任期間 1937年1月27日 - 1938年11月25日
(テンプレートを表示)

エジョフの政治体制は、後世、「エジョフシチナ」(Ежовщинаイジョーフシナ;エジョーフシチナ、エジョフ時代、エジョフ体制の意)としばしば呼称される。

生い立ち・政治活動

1895年5月1日、ロシア帝国首都サンクトペテルブルクに生まれる。初等教育のみを終え、1909年から1915年まで、洋服屋で助手をしたり、工場労働者として働く。1914年第一次世界大戦が勃発すると、1915年から1917年まで、ロシア帝国軍で勤務する。

十月革命勃発前の1917年5月5日ヴィテプスクボリシェヴィキに入党する。1919年から1921年国内戦では、赤軍に所属して白軍と闘う。1922年2月から、共産党の各級地方委員会書記を歴任した。

1927年、共産党の農産物徴発部門に移り、同部門の指導者となる。1929年から1930年まで、農業人民委員代理(農業次官)を務める。1930年11月には、共産党の特別部門、人事部、産業部の部長を歴任する。1934年党中央委員に選出され、翌1935年党中央委員会書記に選出される。1935年2月から1939年3月まで、党中央委員会付属統制委員会議長として党員の統制に当たった。

ニコライ・ブハーリンによって1936年に書かれたとされる「古参ボリシェビキの書簡」に、エジョフについての記述がある。そこには「私の長い生涯のあいだに、エジョフ以上に嫌悪感を起こさせる人間には会ったことがない。私は彼を見るたびに、ある光景を連想せずにはいられない。それは、ラステラヴェヤ通りの公園にいる悪ガキどもだ。彼らのお気に入りの遊びは、パラフィン油に浸した紙を猫の尻尾に結びつけて、それに火をつけることだ。 彼らは、恐怖に陥った猫が、火から逃れようと必死に(しかし、無駄に)、通りを引っ掻き回す様子を見て喜ぶのである。私は、エジョフが子供の頃にこんなふうに楽しんでいたであろうこと、そして今も、形は違えど、同じことをし続けて楽しんでいることを、いささかも疑わない」とある。

エジョフの身長は約150cmと、かなりの短躯であった。彼の残忍な性格とを結び付けて「毒入りの小人」「血まみれの小人」などと呼ばれた。

大粛清

エジョフは、スターリンに対する忠実な支持者であったことで知られる。1935年、エジョフは政治的反対勢力が暴力とテロリズムと結合して反国家・反革命に結合するに違いないと主張する内容の論文を発表している。これは粛清のイデオロギーの根拠の一つとなった[2]1936年ゲンリフ・ヤゴーダの後任として、9月26日に内務人民委員(内務大臣)、中央執行委員に就任し、翌1937年10月には党中央委員会政治局員候補となった。

エジョフは粛清の第一段として、まず前任のヤゴーダ派の一掃に着手した。ヤゴーダ派の粛清で生き残った部下を自身の配下に組み入れることで、権力の基盤を磐石にしたのである。1937年3月、将校クラブに招集した内務人民委員部(NKVD)のメンバーの前の演説でエジョフは、前任者のヤゴーダが「ファシストスパイ」として逮捕されたことを述べた上で、「無実の人間を10人犠牲にしても良いからスパイ1人を逃してはならない。木を切り倒すときは木端が散るものだ」と主張した。また、自身の身長の低さに言及し、「私の身の丈は小さいが、両手は頑丈だ。スターリンの意思を実行する両手だからだ」と述べた。

エジョフは、スターリンの大テロルにおける忠実な執行者として君臨した。NKVDと国家政治保安部(GPU)に徹底的な粛清を指揮し、前任者のヤゴーダ、ヴャチェスラフ・メンジンスキーが任命した多くの人員が解任、銃殺されたが、その中にはエジョフ自ら任命した者も含まれていた。エジョフはスターリンから粛清の命令を受けた際には、その一字一句をメモに書き残していたとされる。さらにはNKVDの部署内にさえも、二重・三重の監視網が敷かれた。

エジョフはかつてレフ・トロツキーを支持していた重工業人民委員部次官ゲオルギー・ピャタコフらを公開裁判第二次モスクワ裁判)にかけ、銃殺刑を言い渡した。これを皮切りにエジョフ体制下での粛清は猛威を振るい、ソビエト共産党指導者・官僚・軍人の半数、ほかにも数百万人の市民が政府への反抗・政府の転覆活動・反革命の容疑を受けて粛清の対象として逮捕され、容赦ない拷問の結果、処刑・追放・収容所送りに至った。1937年9月20日、エジョフはNKVD指令書の付属文書の中で、ハルビンからの帰国者を「日本のスパイ」と決めつけて大量に逮捕するよう指令。結果、4万8千人以上が逮捕されてそのうち3万992人が銃殺された (NKVD命令 第593号)[3]

1937年12月20日、党はボリショイ劇場において、NKVDの創設20周年を祝う大祝典を催した。会場には、スターリンの巨大な肖像と隣り合ってエジョフの肖像が架けられた。花でうずまるステージにおいて、アナスタス・ミコヤンが「同志エジョフから、同志スターリンの方法を学びましょう!ちょうど、同志エジョフ自身が、同志スターリンから学び、これからも学び続けるであろうように!」とエジョフを賞賛した。会場にいたある人物は、この時のエジョフの様子を「彼はうつむき加減で、恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。まるで、こんな手放しの賞賛に自分は相応しくないという風だった」と伝えている。スターリンはこのときのエジョフの様子をじっと眺めていた。

没落

ソ連は大量の粛清によって国家や経済が機能不全になり、エジョフはスターリンの不興を買うようになった。

1938年4月8日、ほかの役職はそのままに、水上交通人民委員を兼任したが、エジョフの役割は徐々に小さくなっていった。これはエジョフの権勢が衰微し、没落する予兆であった。党内で上位にある者を定期的に粛清するスターリンのやり方は、エジョフもよく知っていた。同年8月22日ラヴレンチー・ベリヤが内務人民委員代理に就任する。ベリヤは政治将校の政務のためにエジョフの権力を奪い始め、NKVDの実質的な責任者になった。

家庭生活においては夫婦仲は冷え込み、妻のエフゲジーナに離婚話を切り出した。絶望した彼女はスターリンに手紙でこのことを訴えたが、スターリンから返事はもらえなかった[4]。この一方、彼女には多数の愛人がいることが判明し、彼女の立場を危うくすることになった。数か月以内に彼らは逮捕され、1938年エフゲジーナは睡眠薬の多量服用により自殺を図った。

連日のように粛清を繰り返したエジョフは、晩年には疑心暗鬼となって側近や家族まで疑うようになり、自身の妻までも粛清している。すでに飲んだくれとなっていたエジョフはアルコール使用障害に陥っていた。解任間際のエジョフは、陰鬱で、だらしなく、起きている間はほとんど飲酒しているという生活で、勤務のために現れたことは滅多になかったという。

スターリンは、エジョフの存在を数か月間無視するだけで満足していた。そして、ベリヤに対して年次最高会議常任幹部会にてエジョフを非難するよう命令した。

同年11月11日、スターリンとヴャチェスラフ・モロトフは、エジョフ体制下のNKVDを激しく批判した。エジョフは内務人民委員の解任を自発的に求め、11月25日にはベリヤが内務人民委員に就任した。

1939年3月3日、エジョフはソ連共産党中央委員会における全官職を解任された。

最期

1939年4月10日、エジョフは逮捕され、スハーノフカ刑務所(en:Sukhanovka)に収容された。拷問に耐えかねたエジョフは、奇しくも、自らが多くの人間を処刑したのと同じ理由、すなわち「自分は公式に無能であること、ドイツの諜報機関と結託してスパイ活動を行い、クーデターを計画していた」と「自白」した。さらにエジョフは、同性愛・異性愛の両面で性的に逸脱したと自白したが、これについては今日においてはおおむね真実と考えられている。これは他の粛清犠牲者たちの「自白」が強いられた虚偽のものであったこととは対照的である。告発内容は後に他の証言者たちの証言によって補強され、ソ連崩壊後の調査によっても事実であるとみなされている。

1940年2月3日、ソビエトの裁判官ヴァシリー・ウルリヒは、ベリヤの事務室において彼を審理した。エジョフの言い分は支離滅裂であり、前任のヤゴーダのように終始悲嘆に暮れ、スターリンへの敬愛を述べ続けた。エジョフは、ベリヤからスターリン暗殺計画の「自白」を勧められたが、「どうせこの地上から消え去るなら、高潔な人間として消え去ったほうがましだ」と述べ拒否している。エジョフはベリヤの前に跪いて許しを請うたが無視され、ついに、「スターリンの名を呼んで死ぬ」と誓った。エジョフのスターリン暗殺計画の自白の拒絶は、自身の宣伝目的に役立つことはなかった[5]

死刑判決が読まれたとき、エジョフは泣き崩れ、部屋から抱えられて運びだされなければならないほどに生気を失った。目撃者によるとベリヤはエジョフに服を脱ぐよう命令し、警備員にエジョフを殴打するよう命令したという。1940年2月4日、エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブロヒーン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。遺灰は、モスクワの(ドンスコイ修道院)の集団墓地(en:Mass graves in the Soviet Union)に捨てられた[6]。エジョフの処刑は秘匿にされ、「『エジョフは精神病院に収容されている』と考える人もいる」と、1948年タイム誌が発表している[7]

死後

スターリンは後に、エジョフの消息についてある部下から聞かれた際、「エジョフは外国のスパイだった。彼は無実の人間を大量に虐殺した。よって我々が彼を粛清した」と答えた。その部下はエジョフがあくまでもスターリンの命令を忠実に実行したに過ぎないと知っていたが、特に何の反応も示すことなく受け流したという。

スターリンの死後、ゲオルギー・マレンコフが一時的にソ連の最高指導者となったが、その息子ゲオルギー・ゲオルギエヴィチ・マレンコフは2008年のインタビューで「エジョフの逮捕の指令に父が関わった事は間違いないと思います」と語っている。それによるとマレンコフは1938年のある日、多くの無実の党員がエジョフの指示で違法に逮捕され、銃殺された事実を直筆のメモに記し、それをスターリンに渡した。スターリンは無言でそれを読むと「これを全部あなたが書いたのかな?」「誰かに見せてはいないだろうね?」とマレンコフに確認した。「はい、私が書きました」「誰にも見せていません」というマレンコフの返答に対し、スターリンは「うむ、いいだろう」とだけ答えた。その直後にエジョフは逮捕、銃殺されたという[8]

脚注

  1. ^ 最初の夫の姓からハユーチナ、2番目の夫の姓からグラドゥーンとも。
  2. ^ Lucas, Dean (2007年9月3日). “Famous Pictures Magazine - Altered Images” (HTML). pub. 2007年10月13日閲覧。
  3. ^ 「『外敵つくり団結』変わらぬ露―1937年『エジョフ機密書簡』が示すもの」、産経新聞2014年11月20日号8面。この機密文書は2014年になってウクライナ当局により機密解除されたが、ロシア当局は未だに機密扱いしている
  4. ^ Jansen and Petrov, Stalin's Loyal Executioner, pp. 163-66.
  5. ^ “"The Commissar Vanishes": Yezhov airbrushed out of a picture with Stalin” (HTML) (2007年). 2007年10月13日閲覧。
  6. ^ Montefiore, 288
  7. ^ http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,804478-4,00.html
  8. ^ 権力への上昇-ゲオルギー・マクシミリアーノヴィチ・マレンコフ死後20年によせて

外部リンク

  • Nikita Petrov, Marc Jansen: Stalin's Loyal Executioner: People's Commissar Nikolai Ezhov, 1895-1940 (full text in PDF)
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