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ドゥルダカ

ドゥルダカ・ノヤンモンゴル語: Durdaqa noyan, ? - ?)とは、13世紀後半から14世紀初頭にかけて大元ウルス及び(カイドゥ・ウルス)に仕えたモンゴル人。「[クビライの]御家人(ノコル)で彼より地位の高い者は誰もいなかった」と称されるほど高位の人物であったにもかかわらず、クビライと対立してカイドゥ・ウルスに亡命し、クビライの死後再び大元ウルスに投降したことで知られる。

『集史』パリ写本に描かれるドゥルダカ

元史』などの漢文史料では朶魯朶海(duǒlǔduǒhǎi)・朶児朶海(duǒérduǒhǎi)・朶児朶懐(duǒérduǒhuái)、『集史』などのペルシア語史料ではتورتاقا(tūrtāqā)もしくはدوردقه(dūrdaqa)と記される。

概要

生い立ち

ドゥルダカの出自について、漢文史料の『元史』などには列伝がないが、西方で編纂されたペルシア語史料の『集史』「コルラウト部族志」には詳細な記述が残されている。

チンギス・カンの時代にコルラウト・ウイマクト部族出身の御家人にエブゲン・ノヤンがいた。その子ブルングタイ・ノヤンもまたチンギス・カン時代に高位御家人であった。その子ドゥルダカ・ノヤンはアリク・ブケに属し、彼の側についた。彼は大した罪も犯さず、彼に関する(罪の証拠になる)何物も出なかったので、クビライ・カアンは彼を御家人として、宰相職を授けた。御家人達の中で、位が彼より高位の者は誰もいなかった。その後、彼をカイドゥのもとに派遣してかの〔大〕事を彼に委任した……。 — ラシードゥッディーン、『集史』「コルラウト部族志」[1]

『集史』の記述によると、コンギラト系コルラウト部出身のドゥルダカはチンギス・カンの時代から続く名家の出で、帝位継承戦争時にはアリク・ブケ側に味方したものの積極的にクビライと敵対していたわけではなかったため、内戦終結後改めてクビライに仕えるようになったという。なお、ドゥルダカは『集史』で「宰相職にあった」と記されるが、『元史』の宰相表にはドゥルダカの名前は記されない。ただし、屠寄は宰相表の至元15年から至元18年にかけて「左丞相」の欄が空欄になっていることに注目し、この期間に左丞相の地位にあった人物こそがドゥルダカで、『元史』巻210で至元17年に登場する「丞相脱里奪海」はドゥルダカの異訳の一つではないかと考証している[2]

大元ウルスの丞相時代

クビライは帝位継承戦争に勝利したものの、帝国全体の総意を得たわけでもなく、事実上武力によって帝位を獲得したクビライに反発する王侯は多数おり、その代表的人物がオゴデイ家カイドゥであった。カイドゥの勢力は当初弱小であったものの、1270年代末に起こった「シリギの乱」を経てクビライが派遣した鎮圧軍が解体・分裂したこと、モンケ家・アリクブケ家といった反クビライ派の王族がカイドゥの下に亡命したこともあって急速に拡大し、中央アジア一円を支配する強大な勢力に成長した。そこで対カイドゥ戦線に起用された将軍の一人がドゥルダカで、ドゥルダカは遅くとも1284年(至元21年)にはモンゴル高原で軍を率いカイドゥ軍と対峙していた[3]。同年中には皇族のヤクドゥキプチャク人将軍のトトガクがカイドゥ軍を撃破した功績をドゥルダカがクビライに上奏しており[4]、ドゥルダカは大元ウルス側の軍功を考課する高い地位にあったものと見られる[5]

1286年(至元23年)には、アルタイ山脈を越えて侵攻してきたカイドゥ軍を、ドゥルダカとトトガクの2人が協力して撃退した[6]。また、同年中には五条河屯田[7]に駐屯するカンダスンが疲弊した兵士の救済を願い出て、ドゥルダカがその調査に当たることになったが、調査の上使者をやりとりしていては時機を逸してしまうと判断したクビライがすぐに救済させたという記録が残っている[8]。この記述から、ドゥルダカの駐屯地は五条河屯田・チンカイ屯田に近い地にあったのではないかと見られている[9]

1287年(至元24年)、オッチギン家ナヤンはクビライに対する叛乱を企み、モンゴリア東方の諸王に密かに使者を派遣し仲間に引き込もうとした。当時モンゴル高原に駐留していたドゥルダカとトトガクはナヤンからカチウン家のシンナカルコルゲン家のエブゲンに派遣された密使を捕縛し、その企みを尽く把握しクビライに報告した。その後、「ナヤンの乱」が始まるとシンナカルはドゥルダカとトトガクの2大将を宴会に招いて謀殺せんとし、ドゥルダカは当初これに応じようとしたが、トトガクが宴に行くことを止め、シンナカルの計画は失敗に終わった[10]。また、同年中には叛王の阿赤思を捕虜としている[11]

カイドゥ・ウルスへの投降

1290年(至元27年)には再びカイドゥによる侵攻があり、当時大オルド(大帳)を守っていたドゥルダカとヤクドゥが撃退のため出陣した。ところがドゥルダカらの軍は戦わずして潰走してしまい、ヤクドゥ軍の輜重はカイドゥ配下のヨブクルメリク・テムルによって掠奪され、ヤクドゥは僅か13騎とともに逃れるほどの大敗を喫し[12]、ドゥルダカはこれ以後暫く漢文史料に記載されなくなる。一方、『集史』には「ある者達が彼(ドゥルダカ)を密告したので、クビライ・カアンは彼を召喚した。[ドゥルダカは]恐れ少数の部下達と逃げ、アリク・プケの子ヨブクル及びモンケ・カアンの孫でシリギの子であるウルス・ブカと結んだ。そして彼のもとにいた」とあり、ドゥルダカは何物かの密告によってクビライに処罰されることを恐れ、ヨブクルとウルス・ブカを頼ってカイドゥ・ウルス側に亡命したと記される。『元史』『集史』双方の比較により、ドゥルダカは1280年代に高位の将軍としてモンゴル高原に駐屯していたが、1290年の敗戦によりクビライの信頼を失い、責任を問われることを恐れてカイドゥ・ウルスに亡命するに至ったのではないかと考えられている[13]

カイドゥ・ウルスに所属している間のドゥルダカの動向については全く記録がないが、クビライが1294年に死去してしばらく経つと、ドゥルダカとヨブクル、ウルス・ブカらは大元ウルスの側に投降することを考えるようになった。ドゥルダカが投降を決意するに至った理由について、『集史』「テムル・カアン紀」は「[私は]クビライ・カアンを恐れて逃げたのです。私は、そこ(カイドゥ・ウルス)にいた間、全くカアンの軍隊と戦わず、攻めもしませんでした。テムルがカアンとなったので、この時を好機とし、これらの諸王たちと相談して来たのです」というドゥルダカの弁解の言葉を記載している[14]。そもそも、カイドゥは様々な理由からクビライと対立する者たちが拠り集まった「反クビライ勢力の連合体」という側面が強かったが、他ならぬクビライの死によって本来の目的が薄れ、改めて大元ウルスとカイドゥ・ウルスの国力差・経済格差が浮き彫りとなり、ドゥルダカらの投降に繋がったものとみられる[15]

大元ウルスへの再投降

1296年(元貞2年)秋[16]、モンゴル高原に駐屯するトトガクはアルタイ山脈のウルン・ハン[17]でドゥルダカ、ヨブクル、ウルス・ブカら3王侯の投降を受けた[18]。3王侯の処遇について大元ウルス内部では様々な議論がなされたようで、『集史』「テムル・カアン紀」によると当初オルジェイトゥ・カーン(成宗テムル)はヨブクルは許すが、2度も裏切ったドゥルダカは処刑にしようとしていた。しかし、前述したようにドゥルダカが投降後も大元ウルスを攻めたことはないと弁明したこと、またボロカンらが投降した王侯らを敢えて厚遇することで更なる投降者を増やすべきだとする進言が受入られたことにより[19]、3王侯は全く罪に問われることなく投降を許されることになった[20]。『集史』テムル・カアン紀によるとまずドゥルダカとヨブクルが先行してオルジェイトゥ・カーンの下に案内され、ウルス・ブカはカラコルムに留められて後から入朝することとされた。また、漢文史料によるとこの時ドゥルダカ、ヨブクルらを先導したのは皇族でオルジェイトゥ・カーンの従兄弟にあたる晋王(ジノン)カマラ[21]、移動に用いられたのはジャムチ(駅站)の(モリン道)であった[22]

投降後のドゥルダカはヨブクルとともに再び対カイドゥ・ウルスとの戦いの指揮官に任命されたようで、皇族のココチュ、アスト人将軍ユワスとともにカイドゥ側の将バアリンと交戦している[23]。なお、この時のドゥルダカは「丞相(Čingsang)」とも称されており、『集史』「コルラウト部族志」で「宰相職にあった」とするのはこのように丞相の地位にあったことを指すのではないかと考えられている[24]。ドゥルダカはオルジェイトゥ・カーンの死後、クルク・カーン(武宗カイシャン)の即位まで健在だったようで、即位式の直後に太傅の地位を授けられている[25]。ドゥルダカがどのような最期を迎えたかは記録がない。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 訳文は志茂2013,760-761頁より引用
  2. ^ 蒙兀児史記』巻157宰相表第6の至元十五年條
  3. ^ 『元史』などの漢文史料でモンゴル高原で軍を率いるドゥルダカの存在について言及され始めるのは至元21年の記事(『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年六月]甲戌……賜朶魯朶海札剌伊児所部貧軍」)からである。なお、この記事においてドゥルダカが「ジャライル(札剌伊児)」の軍を率いていたと記されることからドゥルダカをジャライル出身と見る説もある(『蒙兀児史記』)が、やはり『集史』に従ってコルラウト部族出身とするのが正しいと考えられる(松田1983,35-36頁)
  4. ^ 『元史』巻117列伝4牙忽都伝,「牙忽都、祖父撥綽、睿宗庶子也……二十一年、命与禿禿哈同討海都、牙忽都先進、邏得諜人、知其虚実、直前衝敵陣、破其精兵、海都敗走、得所俘掠軍民而還。朶児朶哈上其功、詔賜鈔幣・鎧甲・弓矢」
  5. ^ 松田1983,37頁
  6. ^ 『元史』巻128列伝15土土哈伝,「二十三年……海都兵犯金山、詔与大将朶児朶懐共禦之」
  7. ^ 「五河屯田」とも記される。近年の調査により、現モンゴル国ゴビアルタイ県ジャルガラン・ソム北方25kmに位置する「タバン・ゴル(モンゴル語で「五つの河」を意味する)」という地に当たるものと明らかになっている(村岡2003,5-8/47頁)
  8. ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十三年春正月]甲申、忽都魯言『所部屯田新軍二百人、鑿河渠于亦集乃之地、役久功大、乞以傍近民・西僧餘戸助其力』。従之。憨答孫遣使言『軍士疲乏者八百餘人、乞賑贍、宜於朶魯朶海処験其虚実』。帝曰『比遣人往、事已緩矣、其使贍之』」
  9. ^ 松田1983,37-38頁
  10. ^ 『元史』巻128列伝15土土哈伝,「二十四年、諸王乃顔叛於東藩、陰遣使来結也不干・勝剌哈王、獲諜者得其情密以聞。諸朝請召勝剌哈以離之、他日勝剌哈為宴会邀二大将、朶児朶懐将往王曰事不可測、遂不往、勝剌哈計不得行。未幾、有詔召勝剌哈王曰、此東藩之人由東道是其欲也、将不可制言於北安王命之西行。或言、也不干将反者軍吏請奏而図之王曰、不可緩也。身為先駆、引大兵前窮晝夜之力渡禿兀剌河、与也不干戦大敗之」
  11. ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十四年八月]癸酉、朶児朶海獲叛王阿赤思、赦之」
  12. ^ 『元史』巻117列伝4牙忽都伝,「[至元]二十七年、海都入寇。時朶児朶哈方居守大帳、詔遣牙忽都同力備禦。軍未戦而潰、牙忽都妻帑輜重駐不思哈剌嶺上、悉為薬木忽児・明理帖木児所掠。牙忽都与其子脱列帖木児相失、独与十三騎奔還」
  13. ^ 松田1983,39頁
  14. ^ 松田1983,40頁
  15. ^ 杉山1996,160-163頁
  16. ^ 何故か『元史』成宗本紀には3王侯の投降を記す記事がないが、元貞2年9月28日條には不自然な位置に「カイドゥとウルスブカ(海都兀魯思不花)」という単語が挿入されており(『元史』巻19成宗本紀2,「[元貞二年九月]甲午……海都兀魯思不花部給出伯所部軍米万石」)、ここには何らかの叙述の欠落があって投降はこの頃に行われたのではないかと推測されている。なお、3王侯の投降が元貞2年秋頃にあったことは『元史』トトガク伝などでも確認される(松田1983,30頁)
  17. ^ 3王侯の投降地について、『元史』トトガク伝では「玉龍罕界」としか記されないが、トトガク伝の原史料にあたる「句容郡王世績碑」にはより詳細に「金山之玉龍海」と記されており、アルタイ山脈方面にあった地であると分かる(松田1983,30頁)
  18. ^ 『国朝文類』巻26句容郡王世績碑,「二年秋、諸王従海都者皆来降、辺民驚動、王帥兵金山之玉龍海、備之資饋畢給民不擾、親導薬木忽児等王……」
  19. ^ 『元史』巻121列伝8博羅歓伝,「大徳元年、叛王薬木忽児・兀魯速不花来帰。博羅歓聞之、遣使馳奏曰『諸王之叛、皆由其父、此輩幼弱、無所与知。今茲来帰、宜棄其前悪、以勧未至』。帝深以為然」
  20. ^ 佐口1971,164-165頁
  21. ^ 陳宜甫『秋巌詩集』巻下の「元貞丙申十月、扈従晋王、領降兵入京。朝観、奏凱、引降騎、長歌、入帝都」という記述による(松田1983,47頁)
  22. ^ 永楽大典』所収の「駅站」には「元貞三年の前年=3王侯の投降があった歳」にモリン道で駅馬の使用が頻繁にあったため馬不足に陥ったとの記録があるため(松田1983,47-48頁)
  23. ^ 『元史』巻132列伝19玉哇失伝,「玉哇失、阿速人。……成宗時在潜邸、帝以海都連年犯辺、命出鎮金山、玉哇失率所部在行。従皇子闊闊出・丞相朶児朶懐撃海都軍、突陣而入、大破之。復従諸王薬木忽児・丞相朶児朶懐撃海都将八憐、八憐敗」
  24. ^ 松田1983,36-37頁
  25. ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳十一年五月]壬辰、加知枢密院事朶児朶海太傅……」

参考文献

  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社現代新書、講談社、1996年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 松田孝一「ユブクル等の元朝投降」『立命館史学』第4号、1983年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 村岡倫「シリギの乱 : 元初モンゴリアの争乱」『東洋史苑』第 24/25合併号、1985年
  • 村岡倫「モンゴル西部におけるチンギス・カンの軍事拠点」『龍谷史壇』第119・120合併号、2003年
  • C.M.ドーソン著/佐口透訳注『モンゴル帝国史 3巻』平凡社、1971年
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