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トマス・エジャートン (初代ブラックリー子爵)

初代ブラックリー子爵トマス・エジャートン英語: Thomas Egerton, 1st Viscount Brackley, PC, 1540年 - 1617年3月15日)は、イングランドの法律家、政治家、廷臣、貴族。

初代ブラックリー子爵
トマス・エジャートン
Thomas Egerton, 1st Viscount Brackley
生年月日 1540年
没年月日 1617年3月15日
出身校 オックスフォード大学ブレーズノーズ・カレッジリンカーン法曹院
称号 初代ブラックリー子爵
枢密顧問官(PC)
配偶者 エリザベス・レーヴェンスクロフト
(エリザベス・モア)(英語版)
(アリス・スペンサー)(英語版)

(法務次官)(英語版)
在任期間 1581年6月28日 - 1592年6月2日
女王 エリザベス1世

庶民院議員
選挙区 (チェシャー選挙区)(英語版)
在任期間 1584年 - 1587年

在任期間 1592年6月2日 - 1594年4月10日
女王 エリザベス1世

(控訴院記録長官)(英語版)
在任期間 1594年4月10日 - 1603年5月18日
女王
国王
エリザベス1世
ジェームズ1世

(大法官及び国璽尚書)(英語版)
在任期間 1596年5月6日 - 1617年3月5日
女王
国王
エリザベス1世
ジェームズ1世

その他の職歴
貴族院議員
(1603年 - 1617年)
(第一大蔵卿)(英語版)
1613年6月24日 - 1614年7月11日
(テンプレートを表示)

法廷弁護士として司法職で出世し、庶民院議員も務めたのち、1596年から1617年にかけて(大法官及び国璽尚書)(英語版)を務めた。

1603年にエレズミア男爵、1616年にブラックリー子爵に叙された。ブリッジウォーター伯爵(公爵)(エジャートン家)(英語版)の祖にあたる。

経歴

1540年にサー・リチャード・エジャートンの私生児の息子として生まれる。母は父のメイドであるアリス・スパーク[1][2]

1556年オックスフォード大学ブレーズノーズ・カレッジへ進学。その後リンカーン法曹院で学び、1572年には法廷弁護士資格を取得した[3][4]

司法職で出世し、1581年から1592年にかけて(法務次官)(英語版)1587年にはリンカーン法曹院の会計官、1592年から1594年にかけては法務長官、1594年から1603年にかけては(控訴院記録長官)(英語版)を務めた[3][2]

また1584年から1587年にかけては(チェシャー選挙区)(英語版)から選出されて庶民院議員も務めた[2]

エリザベス1世の治世はバーリー男爵ウィリアム・セシルロバート・セシル(後の初代ソールズベリー伯)父子とエセックス伯ロバート・デヴァルーの派閥抗争が人事にも絡み、1594年にエジャートンが辞任した後の法務長官を巡りセシル父子はエドワード・コークを、エセックス伯はフランシス・ベーコンを推薦した。エリザベス1世の意向もあり法務長官はコークが就任した[5]

エジャートンはエセックス伯派に属し、感情の抑制が出来ない彼に克己心を持つことを忠告したり、エセックス伯が女王と揉めると服従することを呼びかけたりしている。しかしエセックス伯が忠告を聞かず、1599年アイルランド遠征に失敗して女王の怒りを買い失脚すると、女王の命令に従いエセックス伯の身柄を預かり、1601年2月8日に女王の使者としてコークらと共にエセックス伯の屋敷を訪問したが、クーデターを起こす決意を固めたエセックス伯により屋敷に閉じ込められた(直後のクーデターは失敗しエセックス伯は捕らえられて処刑された)[6]

1596年枢密顧問官に列するとともに国璽尚書に就任した。1603年7月にはエレズミア男爵に叙されるとともに大法官に転任し、1617年3月3日まで務めた[3]。在任中はコモン・ローを重視しジェームズ1世の司法介入に反対するコークと対立、ベーコンと共に国王大権を擁護する側に回り、議会やコークに率いられたコモン・ロー裁判所を大権を侵害していると非難、コークの著書『判例集』も「王権を軽んじている」「内容が粗雑」と批判している。ただし、『判例集』にも「沢山の良い点がある」と一定の評価を与えている[7]

1613年から1614年にかけては委員会制になっていた(大蔵卿)(英語版)の第一卿を務めた。

また1610年から1617年にかけて(オックスフォード大学学長)(英語版)を務めた[2][1]。この役職に就いていた1611年にオックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジの学寮長選挙が行われ、大学で非主流派だった反カルヴァン主義ウィリアム・ロードの立候補にカルヴァン主義者から訴えがあった。エレズミア男爵はジェームズ1世に訴えを伝えたが選挙実施が承認され、選挙で当選したロードは大学改革と出世に邁進していった[8]

1616年11月にブラックリー子爵に叙せられるも翌1617年3月15日に死去した。爵位は次男(ジョン・エジャートン)(英語版)が継承した[2][1]

栄典

爵位

1603年7月21日に以下の爵位を新規に叙せられた[2][1]

  • シュルーズベリー州におけるエレズミアの初代エレズミア男爵 (1st Baron Ellesmere, of Ellesmere in the County of Shrewsbury)
    (勅許状によるイングランド貴族爵位)

1616年11月7日に以下の爵位に新規に叙せられた[2][1]

  • ノーサンプトン州におけるブラックリーの初代ブラックリー子爵 (1st Viscount Brackley, of Brackley in the County of Northampton)
    (勅許状によるイングランド貴族爵位)

家族

1576年以前にエリザベス・レーヴェンスクロフト(生年不詳-1588)と最初の結婚をした。彼女との間に以下の2男1女を儲ける[2][1]

  • 長男トマス・エジャートン (1579以前-1599)
  • 次男(ジョン・エジャートン)(英語版) (1579-1649) - 第2代ブラックリー子爵を継承。初代ブリッジウォーター伯爵に叙される。
  • 長女メアリー・エジャートン (生没年不詳) - 庶民院議員・弁護士(サー・フランシス・リー)(英語版)と結婚

最初の妻との死別後、1596年頃に(エリザベス・モア)(英語版)(1552-1600)と再婚。彼女とも死別した後の1600年にサー・ジョン・スペンサーの娘でダービー伯爵ファーディナンド・スタンリーの未亡人(アリス・スペンサー)(英語版)(1559-1637)と再婚した。しかしこの2番目と3番目の妻との間に子供はなかった[2][1]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g Heraldic Media Limited. “Brackley, Viscount (E, 1616 - 1829)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年6月30日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i Lundy, Darryl. “Thomas Egerton, 1st Viscount Brackley” (英語). thepeerage.com. 2016年6月23日閲覧。
  3. ^ a b c   この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Brackley, Thomas Egerton". Encyclopædia Britannica (英語). 4 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 367.
  4. ^ "Egerton, Sir Thomas (EGRN586T)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  5. ^ 石井、P489 - P491。
  6. ^ 塚田、P30、石井、P515 - P516、P532、P537。
  7. ^ 木村、P193 - P194、P196 - P197、P207。
  8. ^ 塚田、P88 - P89。

参考文献

公職
先代
(サー・ギルバート・ジェラルド)(英語版)
(控訴院記録長官)(英語版)
1594年 - 1603年
次代
初代キンロス卿
先代
(サー・ジョン・パッカリング)(英語版)
(大法官及び国璽尚書)(英語版)
1596年 - 1617年
次代
サー・フランシス・ベーコン
先代
初代ノーサンプトン伯爵
(第一大蔵卿)(英語版)
1613年 - 1614年
次代
初代サフォーク伯爵
(大蔵卿)
イングランド議会 (en
先代
(ジョージ・カルバリー)
ウィリアム・ブース
(チェシャー選挙区)(英語版)選出庶民院議員
1584年 - 1587年
同一選挙区同時当選者
(ヒュー・チャムリー)(英語版)(1584年 - 1586年)
(ジョン・サヴェイジ)(1586年 - 1587年)
次代
(ジョン・サヴェイジ)
(サー・ジョージ・ビーストン)
司法職
先代
(サー・ジョン・ポパム)(英語版)
(法務次官)(英語版)
1581年 - 1592年
次代
サー・エドワード・コーク
法務長官
1592年 - 1594年
学職
先代
(リチャード・バンクロフト)(英語版)
(オックスフォード大学学長)(英語版)
1610年 - 1616年
次代
第3代ペンブルック伯爵
名誉職
先代
初代レスター伯爵
(デンビーシャー首席治安判事)(英語版)
1594年以前 - 1596年
次代
(ロジャー・プレストン)(英語版)
(フリントシャー首席治安判事)(英語版)
1594年以前 - 1596年
次代
(トマス・リヴェンスクロフト)
先代
不明
(バッキンガムシャー統監)(英語版)
1607年 - 1616年
次代
初代バッキンガム公爵
イングランドの爵位
爵位創設 初代ブラックリー子爵
1616年 - 1617年
次代
(ジョン・エジャートン)(英語版)
初代エレズミア男爵
1603年 - 1617年
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