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トゥーラウ

トゥーラウベラルーシ語: Тураў)は、ベラルーシホメリ州ジトカヴィーチ地区(bex)の市である。ベラルーシで最も古い都市の一つであり、12世紀13世紀にはトゥーロフ公国の首都だった。歴史的地域区分としてはパレーッシェ(ポリーシャ・ポレシエ)[2] に含まれる。なお、歴史学的文献においてはトゥーロフ、トゥロフ等とも表記されている。

トゥーラウ
Тураў
座標 : 北緯52度04分09秒 東経27度44分10秒 / 北緯52.06917度 東経27.73611度 / 52.06917; 27.73611
歴史
建設 980年
2004年
行政
 ベラルーシ
  ホメリ州
 地区 ジトカヴィチ地区
 市 トゥーラウ
人口
人口 (2016年現在)
  市域 2795[1]
その他
等時帯 FET ()
郵便番号 247980
市外局番 +375 2353
位置図
トゥーラウ (ベラルーシ)

留意事項) 12 - 13世紀のトゥーラウを首都としていた公国は、2013年時点の日本語書籍では多く「トゥーロフ公国」と表記されているために、本頁では「トゥーロフ公国」、またその君主を「トゥーロフ公」と表記している。

地理

プリピャチ川から南東に25km、鉄道ではホメリ市から258kmの位置にある。

歴史

キエフ大公国時代

 
11世紀の『トゥーラウ福音経』
 
12世紀の教会跡

トゥーラウはドレゴヴィチ族の政治・経済・文化の中心地であった。都市はプリピャチ川へ流入する(ヤズディ川)と(ストルメニ川)の合流地点に造られた。プリピャチ川はドニエプル川、そして黒海へとつながっており、その一連の河川のつながりは、ヴァリャーグからギリシアへの道の一部として、コンスタンティノープルとの交易に利用されていた。『原初年代記』の中に都市の名が初めて言及されるのは980年のことであり、「トゥーラウではトゥルィ(Тур)という者が権力をもっており、都市の名は彼の名による」という主旨の記述が見られる[3]

1005年、トゥーラウにギリシャ正教の管区が置かれた。11世紀には、当地出身の神学者・哲学者のキリラ・トゥーラウスキ[4] によって、ベラルーシで最も古い書籍である『トゥーラウ福音経(be)』が書かれた。12世紀には、トゥーロフ公国には2つの修道院と85の教会があった。

1158年、ルーシ諸公の抗争(ru)の最中、トゥーラウとピンスクは10週間にわたって包囲された。これはルーシの諸公の戦いにおいて、もっとも長期的な包囲戦であった。また、1230年ごろにはトゥーラウに地震が起き、都市が損害を被っていたことが、1961年の調査で解明している。1246年末には、トゥーラウも含む南部ベラルーシでモンゴル帝国軍との戦いが行われた。

キエフルーシ時代、トゥーラウは上記の交易ルートによって重要な交易中心地であり、トゥーロフ公の位にはリューリク朝出身者が就いていた。また、戦略上の重要拠点でもあり、あらゆる産業が発展した。なお、1180年代にはトゥーロフ公国からピンスク公国が分離・独立している。

リトアニア大公国時代

1320年から1330年ごろ、トゥーロフ・ピンスク公国リトアニア大公国に編入された。1430年にはシュヴィトリガイラが都市の支配者となり、15世紀末にはグリンスク公ミハイル(bex)がトゥーラウを支配した。1502年タタール人によって街が破壊されると、ミハイルはモスクワ大公国へ逃亡したため、トゥーラウは復旧に従事したコンスタンティ・オストログスキ家のものとなった。オストログスキ家はおよそ1世紀の間トゥーラウを管理していた。

1648年ボグダン・フメリニツキーの指揮の下、コサック軍がトゥーラウを占領した。またその後のリトアニア大公国軍との争奪戦、さらにモスクワ大公国との戦争を通して[注釈 1]、街は何度も破壊された。1648年には401の屋敷があったのに対し、1667年には111を数えるのみとなった。

ロシア帝国時代

 
近代のトゥーラウの風景を描いた作品
(オルダ・ナポレオン(ru)・1856年)

1793年第2次ポーランド分割の後、ロシア帝国ミンスク県に編入された。トゥーラウでは19世紀の間、地方的な素朴な町並みが保存されていた。1882年に出版されたアダム・キルコル(ru)の著書[注釈 2] の中には、「今はただのプリピャチ川右岸地域の小さく貧しい村だが、歴史的見地からみて最も古く注目すべき都市であり、それを確かめに訪れるべきである」「現在のトゥーラウは、かつての輝かしい時代の記憶以外に、とりたてて批評を下す意義はない」と記されている。一方、当時のトゥーラフには木造の歩道があり、中央の公園ではオーケストラの演奏が行われていた。水路が引かれ、プリピャチ川、そしてキエフまで船で行くことができた。なお、16世紀からユダヤ人社会が形成され、1897年には2252人(総人口4290人のうち52.3%)のユダヤ人がいた[5]

20世紀

 
1926年の都市計画図

1940年、パレッシェ州(ru)[注釈 3] の1区となった。1941年の夏にナチス・ドイツ軍に占領されたが、同年10月にはすでにトゥーラウの人々による反ファシスト組織が活動を始めている。なお、20世紀にはベラルーシのユダヤ人の多くはアメリカへ移住を始めていたが、第二次世界大戦中ホロコーストにより、トゥーラウを含むベラルーシのユダヤ人が殺害された。都市は1944年7月5日に解放された。1962年、トゥーラウは市から都市型集落へと改編され、ジトカヴィーチ地区の一部となった。

現在

2004年8月10日、トゥーラウは市に昇格した。また同年、古代スラヴ人の文献と出版物の日を制定した。現在、野菜缶詰ジュースを作る工場乳製品コンビナート企業がある。2006年にトゥーラウに勤める人は3100人いた。2008年には新しいホテルが建設され、観光客のためのインフラ整備が行われた。市には(プリピャチ国立公園)(ロシア語版、英語版) があり、また付近の草地では、春には増水によって島のようにみえるユニークな自然の造形美を見ることができる。

史跡・記念碑

  • 石造りの十字架:20世紀の終わりに、古い墓地の一画から出土した。表面は磨耗していたが端は鋭かったため、地面の下で「成長」していたのではないか、とも一部で言われた。
  • 1170年代の教会の土台部分:奥行き29.3m、幅17.9m。キエフルーシ時代の西部のものでは最大の大きさである。1961年に発掘され、1230年の地震で破壊されていたことが判明した。
  • オールセインツ教会(en):1810年建設の教会。名物の2mの石の十字架は、伝承では、下流のキエフから上流のトゥーラウへ流れを逆らって船で運ばれたと言われる。
  • キリラ・トゥーラウスキの像:高さ7mの記念碑。1994年建設。

ゆかりの著名人

  • キリラ・トゥーラウスキ(bex):(1130年 - 1182年)。トゥーラウ出身の神学者・哲学者。
  • コンスタンティ・オストログスキ:(1526年 - 1608年)。16世紀にトゥーラウを治めた。
  • アレクサンドル・シフマン(ru):(1907年 - 1993年)。トゥーラウ出身の文芸評論家。

脚注

注釈

  1. ^ これらの戦争は、ポーランド史において広義の大洪水時代と呼ばれる一連の戦争を指す。
  2. ^ Живописной России』(意訳:彩りのロシア・絵画のようなロシア)。アダム・キルコルはリトアニア・ベラルーシに関する作家・研究者(? - 1886年)。
  3. ^ 1938年から1954年まで存在した地域区分。現在のホメリ州の西半分にあたる。

出典

  1. ^ Численность населения на 1 января 2016 г. и среднегодовая численность населения за 2015 год по Республике Беларусь в разрезе областей, районов, городов и поселков городского типа
  2. ^ 服部倫卓 『歴史の狭間のベラルーシ』(5頁)では「ポレシエ」と表記している。ポリーシャはウクライナ語風の読み方。ロシア語風にはパレーシエ。
  3. ^ (國本哲男)他 訳『ロシア原初年代記』(89頁)。また「トゥルィ」の表記も同書による。
  4. ^ 服部倫卓 『歴史の狭間のベラルーシ』ではロシア語風に「キリル・トゥーロフスキー」と表記されている。
  5. ^ (2012年5月29日時点のアーカイブ

参考文献

  • 服部倫卓 『歴史の狭間のベラルーシ』 東洋書店、2004年。
  • 國本哲男他 訳 『ロシア原初年代記』 名古屋大学出版会、1987年。

外部リンク

  • Туров
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