セーヌ県(仏: Le département de la Seine)は、1968年1月1日に(セーヌ=エ=オワーズ県)とともに廃止されたフランスの県である。当初は、パリ県として成立した。1964年7月10日の法律および1965年2月25日のデクレの施行によって、現在のパリ、セーヌ=サン=ドニ県、オー=ド=セーヌ県及びヴァル=ド=マルヌ県に再編された。
設置経緯
1790年1月13日、国民議会により、「パリ県」の設置が宣言される。「パリ県」は、パリの街及びノートルダム大聖堂からおおむね12キロメートルの範囲のコミューンで構成されることになった[1]。
1790年1月19日、パリ県の境界が画定される。
1790年2月10日、パリ県内に、パリ、サン=ドニ及びブール=ラ=レーヌの3つの地区(District)が設置されることになる。
県の歴史
18世紀
- 1790年3月4日 : 3地区で構成されるパリ県が成立した[2]。
- 1792年9月5日 : ブール=ラ=レーヌ地区がブール=ドゥ=レガリテ地区(District de Bourg de l'Égalité)へと改名される。
- 1793年9月17日 : サン=ドニ地区がフランシアード地区(District de Franciade)へと改名される。
- 1795年8月22日 : パリ県がセーヌ県へと改名され、地区制度も廃止される[3]。
19世紀
- 1800年 (2月17日。革命暦8年雨月28日法) : 14の郡(arrondissements)が設置され、うち2つにはそれぞれ4つの小郡(canton)が設けられた。
- 1829年 : ナンテール小郡がクールブヴォア小郡となる。
- 1853年6月22日 : ジョルジュ・オスマンが県知事となる(在職期間は1870年1月5日まで。)。
- 1860年 : 周辺部(ティエールの城壁内部)を併合した上で、パリの行政区が現在の20区に再編される。
- 1880年 : サン=ドニとソーの各副知事制度が廃止される。両郡は引き続き存在したが、セーヌ県知事が直轄することとなった。
- 1893年 : 新たに13の小郡が設置される。
20世紀
人口
1801年当時のセーヌ県の人口は、63万1585人(87%がパリに居住)であった。 セーヌ県廃止当時の人口は、570万0968人であった。
- パリ 259万0771人
- オー=ド=セーヌ県に再編された27コミューン 125万0061人
- ヴァル=ド=マルヌ県に再編された29コミューン 96万7847人
- セーヌ=サン=ドニ県に再編された24コミューン 89万2289人
脚注
関連項目
- ジョルジュ・オスマン - 1853年から1870年までセーヌ県知事。パリ改造を推し進めた。
- ジュール・フェリー - 1870年から1871年までセーヌ県知事
- ウジェーヌ・プベル - 1883年から1896年までセーヌ県知事
- ベルヴィル (セーヌ) - セーヌ県にかつて存在したコミューン。現在のパリ19区と20区の一部。
- モンマルトル - セーヌ県にかつて存在したコミューン。現在のパリ18区とサン・トゥアンの一部。