セルジュ・コミッショーナ(Sergiu Comissiona, 1928年6月16日 – 2005年3月5日)は、ルーマニア出身の、アメリカ合衆国の指揮者・ヴァイオリニスト。力強さと繊細さを兼ね備えた熟練の棒捌きに定評があった。
人物・来歴
1928年、ルーマニアのブカレストに生まれ、5歳でヴァイオリンの学習を開始。10代にしてルーマニア国立合奏団のヴァイオリン奏者に迎えられる。その後、コンスタンティン・シルヴェストリとエドゥアルト・リンデンベルクに指揮法を学び、17歳で指揮者デビューを果たす。1955年から1959年まで(ルーマニア国立歌劇場)の指揮者に任命された。
1959年に共産党政権を避けてイスラエルに亡命。1960年にラマト・ガン室内管弦楽団を設立して、1967年までその監督を務めるかたわら、1959年から1966年まで(ハイファ交響楽団)も指揮した。1965年にフィラデルフィア管弦楽団を指揮して米国デビューを果たす。1968年より米国に移住。
その後は、1966年から1977年までイェーテボリ交響楽団の音楽監督に、1982年にはオランダ・ヒルフェルスムのオランダ放送フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任。他にも、北米各地の主要なオーケストラの音楽監督に迎えられており、ボルティモア交響楽団、ヒューストン交響楽団、ヴァンクーヴァー交響楽団、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者のほか、ニューヨーク・シティ・オペラの音楽監督も担当した。
1969年よりボルティモア交響楽団の音楽監督として15年を過ごす間に、当時まだ無名の楽団だったこのオーケストラを、国際的に評価されるアンサンブルへと育て上げ、世界各地に演奏旅行に連れ出すとともに、最初の数々の録音を指揮した。オーケストラビルダーとしての評判の高さから、(アジア・ユースオーケストラ)(AYO)やスペインのRTVE交響楽団の音楽監督にも迎えられている。
1976年7月4日に妻とともに市民権を取得し米国に帰化。長年ニューヨーク市に住んでいたが、2005年3月5日にオクラホマ・シティにおいて、演奏会を数時間後に控えて、心臓発作により急逝した[1][2]。76歳没。
(近現代の音楽)の米国初演や世界初演を実現させ、中でもアラン・ペッテションを得意とした。ペッテションの《交響曲 第9番》はコミッショーナに献呈されている。フランス政府より(フランス文化勲章)(シュヴァリエ章)を、ニューイングランド音楽院より名誉博士号を授与され、また(スウェーデン王立音楽院)の名誉会員に選任されたほか、ボルティモア交響楽団主催の新進指揮者コンクールの設立にも加わった。
脚注
注釈・出典
先代 | (ハイファ交響楽団)音楽監督 1959–1966 | 次代 |
先代 (ピーター・ハーマン・アドラー) | ボルティモア交響楽団首席指揮者 1969–1984 | 次代 デイヴィッド・ジンマン |
先代 | ニューヨーク・シティ・オペラ音楽監督 | 次代 |
先代 アールパード・ヨー | RTVE交響楽団音楽監督 1990–1998 | 次代 エンリケ・ガルシア・アセンシオ |
先代 秋山和慶 | ヴァンクーヴァー交響楽団音楽監督 1991–2000 | 次代 (ブラムウェル・トーヴェイ) |