ステファヌス6世(ステファヌス6せい)と呼ばれることがあるローマ教皇は2人存在する。「ステファヌス」の名を持つ教皇の代数に関する歴史的経緯は(ステファヌス (教皇選出者)#「教皇ステファヌス」とその代数)を参照。
- ステファヌス6世 (在位:885年-891年)→ステファヌス5世 (ローマ教皇) を参照。
- ステファヌス6世 (在位:896年-897年)→ステファヌス6世 (7世)とも書かれる。
本項では、現在教皇庁および『(教皇庁年鑑)』が正式に認めている、896年に即位した人物について扱う。
ステファヌス6世(Stephanus VI、? - 897年8月)は第113代ローマ教皇(在位:896年 - 897年)。
父はヨハネスといい、司祭もしくは教会長老だったとされる。教皇フォルモススによってアナーニ司教に任命されたが、不本意だったという[2][3]。
896年4月にフォルモススとボニファティウス6世が相次いで亡くなると、反フォルモスス派のスポレート公ランベルト・ダ・スポレートらスポレート派の庇護を受けて教皇に選出された。フォルモススに恨みを抱いていたため、897年1月、フォルモススの遺体を掘り起こして遺体に教皇の衣服を着させ、模擬裁判をかけた後、祝福を与える指を切り落とした上で遺体をテヴェレ川に流した(死体裁判)。このことに反発した民衆は暴動を起こし、ステファヌス6世を廃位して捕らえ、8月に絞殺した。この前にも、882年に教皇ヨハネス8世が初の教皇暗殺によって命を落とすなど、当時の混乱ぶりが窺える[2][4]。
ステファヌス6世の殺害後はロマヌス、テオドルス2世、ヨハネス9世と短期間の教皇が続き、彼等によってフォルモススの名誉回復がなされ、遺体は丁重に埋葬し直され、死体裁判の無効が宣言された[5]。
脚注
参考文献
- 『キリスト教人名辞典』(日本基督教団出版局)、1986年。
- P.G.マックスウェル・スチュアート著、月森左知・菅沼裕乃訳、高橋正男監修『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年。
- マシュー・バンソン著、長崎恵子・長崎麻子訳『ローマ教皇事典』三交社、2000年。
- 学校法人 (上智学院) 新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典 第3巻』研究社、2002年。