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ジョン・デリンジャー

ジョン・ハーバート・ディリンジャー・ジュニア(John Herbert Dillinger Jr. [ˈdɪlɪndʒər], 1903年6月22日1934年7月22日)は、アメリカ合衆国インディアナ州インディアナポリス出身のギャング銀行強盗1930年代前半アメリカ中西部で銀行強盗を繰り返し、FBIから「社会の敵ナンバーワン」("Public Enemy No.1")に指名された。日本語では“デリンジャー”とも。

ジョン・ハーバート・ディリンジャー・ジュニア
John Herbert Dillinger Jr
生誕1903年6月22日
アメリカ合衆国インディアナ州インディアナポリス
現況死没
死没1934年7月22日
アメリカ合衆国シカゴ
別名社会の敵No.1
職業ギャング
罪名殺人
銀行強盗
配偶者ベリル・ホービス(5年で離婚)

生涯

生い立ち

1903年6月22日インディアナ州インディアナポリスのブライトウッド(Brightwood)で生まれた。食料雑貨店を営んでいた父はアルザスに起源を持つドイツ系移民の二世で、子供に対しては非常に厳格な躾を行った。3歳の時に母親が亡くなると、14歳年上の姉オードリーが母親代わりとして幼いディリンジャーの面倒を見た。母の死から6年後に父は再婚したが、ディリンジャーは継母と反りが合わず、反抗するようになった[1]

十代の頃から素行不良が目立つようになり、暴力事件やささいな窃盗を繰り返すようになる。16歳で学校を中退すると、インディアナポリスで機械工場の職に就く。仕事には真面目に取り組む一方で、一晩中遊び歩くことも珍しくなかった。このことに困惑した彼の父は「都会の空気が息子を堕落させている」と考え、住んでいた家を売却しインディアナ州ムーアスビル(Mooresville, Indiana)近くの農場に引っ越した[2]

しかし、ディリンジャーは田舎での生活になじめず、生活態度が改まることはなかった。1922年には自動車窃盗で捕まり、父から勘当された。その後、アメリカ海軍に入隊するも、数ヶ月後には職務放棄で不名誉除隊となった。故郷のインディアナに戻ったディリンジャーは、地元の16歳の娘ベリル・ホービス(Beryl Ethel Hovious)と結婚。平穏な暮らしを望むも思うように職が見つからず、再び犯罪に手を染めるようになる。結局、5年後に2人は離婚した[3]

初めての刑務所暮らし

1924年9月6日、友人のチンピラ、エド・シングルトン(Edgar Singleton)に強盗の話を持ち掛けられ、食料雑貨店を襲うが失敗。2人共逮捕される。この事件の裁判で、シングルトンは弁護士を雇って2年の懲役刑で済んだが、ディリンジャーは全面的に罪を認めた。罪を認めたのには、父の助言があったからだと言われている。この時ディリンジャーに前科は無かったが、2件の容疑で有罪判決が下り、それぞれ2年から14年と10年から20年の懲役刑を言い渡された。インディアナ州クラウンポイント(Crown Point, Indiana)の刑務所に入所後、ディリンジャーは刑務所内の洗濯場で働きながら所内の野球チームに参加し、大リーグ選手並みの腕前をみせるなど、気ままに刑務所暮らしを楽しんだ。彼は8年半後に仮釈放された。

社会の敵ナンバーワン

刑務所暮らしの間に、彼と同じインディアナ州マンシー出身の(ハリー・ピアポント)(Harry Pierpont)と、インディアナ州テレホート出身の(ラッセル・クラーク)(Russell "Boobie" Clark )から銀行強盗のノウハウを学んだディリンジャーは出所後、彼らと共に強盗稼業をはじめることを決意した。

1933年5月22日に仮釈放されたディリンジャーは、受刑中のピアポント、クラークと他数人を刑務所内の洗濯場から脱獄させる事に成功。脱獄に成功したピアポントとクラーク、そしてチャールズ・マクレイ(Charles Makley)、エドワード・シャウス、ハリー・コープランド、“オクラホマジャック”・クラーク(James Clark)、ウォルター・ディートリヒ(Walter Dietrich)らと共に強盗団を結成。このメンバーが後に「ファースト・デリンジャー・ギャング(First Dillinger Gang)」と呼ばれる事となる。しばらくしてホーマー・メーター(Homer Van Meter)、ベビーフェイス・ネルソンことレスター・ギリス(Baby Face Nelson)らが加わり、彼らは「セカンド・ディリンジャー・ギャング(Second Dillinger Gang)」と呼ばれた。その後彼らは12件の銀行強盗を働き、現在の金額に換算しておよそ500万ドルの金を強奪した。また、銀行を襲っても銀行にいた客からは一銭も奪わず、この事が彼らを義賊的なイメージに結び付かせ、大衆からもてはやされるきっかけになった。

しかし、仮釈放からわずか4ヶ月後、ディリンジャーらの強盗団は逮捕され再び刑務所に収監される。収監先はオハイオ州ライマにある刑務所だった。彼らは収監されてすぐ、看守を殺害して脱獄し、逃亡。アリゾナ州ツーソンにあるホテル「コングレス」に身を隠したが、1933年12月に逮捕される。逮捕後、ディリンジャーだけは他のメンバーから切り離されインディアナ州クラウンポイントのレイク郡刑務所に投獄された。しかしピアポントら他のメンバーは収監先の刑務所から再び脱獄、レイク郡刑務所に収監されていたディリンジャーを奪還する。再会したディリンジャーとピアポントらは以前にも増して次々と銀行強盗を行ったが、オハイオ州イーストシカゴのファースト・ナショナル銀行を襲った時にディリンジャーは初めての殺人を犯してしまう。銀行に駆けつけた警察との銃撃戦の際、警官1名を射殺してしまったのである。この事件が警察を奮起させ、事件から間もない1934年1月27日にディリンジャーはツーソンで逮捕される。

1934年3月3日、裁判が終わり再び刑務所に収監されていたディリンジャーは、木片を靴墨で黒く染めた模造銃で看守を脅し、厳重警戒の刑務所からの脱獄に成功する。この時の脱走を新聞は「ディリンジャー、靴墨で黒く染めた銃を使って脱獄に成功!」と報じている。またこの逃走の際、女性保安官リリアン・ホリー(Lillian Holley)の所有するV-8フォードを奪って逃亡。むざむざ犯人を逃した保安官を、当時ディリンジャー寄りだったマスコミは嘲笑的に報じた。脱獄に関する調査は、イリノイ州州知事の命令でシカゴの私立探偵「ハーグレーブ・シークレットサービス(Hargrave Secret Service)」によって行われ、ディリンジャーの脱獄に関する詳細情報も情報提供者から得ていたが、イリノイ州州知事とイリノイ州司法長官は、ディリンジャーが脱獄の際に用いた銃に関する情報については最後まで公式発表をしなかった。

脱獄後、ディリンジャーはインディアナからイリノイへ盗難車両を使い逃亡。この「州を跨いでの逃亡」が連邦法(Federal law)に触れる行為で有ったので、この事がDOI(のちのFBI)の注意を引くきっかけになった。 脱獄したディリンジャーは、新たにベビーフェイス・ネルソンを一味に加えて再び銀行強盗を始めた。しかし、創設したばかりのFBIも「ディリンジャー特捜班」を設け、その逮捕に躍起になっていた。

1934年4月22日、通報によりFBIはウィスコンシン州北部のリトル・ボヘミア・ロッジ(Little Bohemia Lodge)にいるディリンジャー一味を包囲した。そして、ロッジから出て来る3人の男に銃撃したが、彼らはディリンジャー一味ではなく民間人であった。この銃撃により民間人1名が死亡、FBIは創設間も無く大失態を犯してしまい国民からの非難が集中する。

1934年6月22日、FBI長官J・エドガー・フーヴァーはディリンジャーを『社会の敵ナンバーワン』("Public Enemy No.1")に指名、翌日アメリカ合衆国司法省はディリンジャー逮捕の為、彼に関する情報提供者には5,000ドル、捕らえた者には20,000ドルの賞金を出すと発表した。

犯罪王の最期と「赤いドレスの女」

1934年7月22日、ディリンジャーはガールフレンドの(ポリー・ハミルトン)(Polly Hamilton)と(アナ・カンパナス)(Ana Cumpanas, 別名:アンナ・セージ(Anna Sage))と共に、シカゴ近郊のリンカーンパーク(Lincoln Park, Chicago)にある映画館(バイオグラフシアター)(Biograph Theater)で上映中のギャング映画『男の世界』(原題: Manhattan Melodrama)を観に出かけた。この時、いつもは地味なアンナが派手な「赤いドレス」を着て出かけた為仲間にからかわれていたとの証言が残っている。ルーマニアからアメリカに移住し、当時売春宿を経営していたアンナは、売春宿の摘発によるルーマニアへの強制送還を恐れ、顔馴染みのディリンジャーの情報をFBI捜査官に売っていた。FBI捜査官は映画館の外で待ち伏せする際、ディリンジャーを見失わない様にする為、予めアンナに赤いドレスを着る様に指示していた。

映画が終わり外へ出てきたディリンジャーは待ち伏せしていたFBI捜査官らに囲まれた。そして捜査官らの一斉射撃を受けその場に倒れた。一説によると、銃を抜く動作をせず「撃たないでくれ!Gメン!」と叫んだディリンジャーの背後から発砲したとの目撃証言もある。5発発砲された弾丸のうち3発が彼に命中、その内の2発は彼の胸に当たり、1発が彼の心臓を損傷、これが致命傷となった。またもう1発の弾丸は彼の首から入り右目の下を貫通していた。ディリンジャーは(アレクシアンブラザース病院)(Alexian Brothers Medical Center)に担ぎ込まれたが、午後10時50分に死亡した。

その後、ディリンジャーに関する捜査の陣頭指揮を取ったFBI局員(メルヴィン・パーヴィス)(Melvin Purvis)は、ディリンジャーは死の間際に「一言も発せずに死亡した」とのコメントを発表した。ディリンジャーに発砲した捜査官チャールズ・B・ウィンステッド、クラレンス・O・フルト、ハーマン・E・ホリスは後にFBI長官J・エドガー・フーヴァーから賞賛の言葉を送られた。しかし、彼らのうち誰がディリンジャーに致命傷を負わせたのかについては全員がノーコメントだった。

遺体はインディアナポリスにあるクラウンヒル墓地(Crown Hill Cemetery)に葬られた。

その他

  • ディリンジャーの死から2年後、彼の情報を提供したアンナはルーマニアに強制送還され、その11年後にルーマニアで没している。
  • 死後、彼の墓を見物に来ていた人々により墓石が削られ、出来た破片を記念品として持ち去られるケースが相次いだ。
  • ディリンジャーのファンによって創設されたファンクラブ「John Dillinger Died for You Society」のメンバーは彼の死去した日を「John Dillinger Day」と呼んでいる。毎年彼の命日にはメンバーがバイオグラフシアターに集まり、バグパイプ奏者によって「アメイジング・グレイス」が奏でられる中、彼が死亡した路地まで歩いて彼の死を偲ぶという行事が行われている。
  • ディリンジャーと彼の仲間達が隠れ家にしていたウィスコンシン州ラングラード郡(Langlade County, Wisconsin)の家は、その後「フォレスト・イン(Forest Inn)」という小さなバーになり今日まで残っている。
  • ファースト・ナショナル銀行事件の裁判中、ディリンジャーが検察官の肩に腕を乗せている所を撮影した写真は、現存するディリンジャーの写真の中でも有名な一枚となっている。
  • ディリンジャーが脱獄後再び銀行を襲い出すまでの間メキシコへ逃亡していたとする説がある。「メキシコ逃亡説」についてはペーパーバックの題材になったり、ジャック・ヒギンズの小説で取り扱われるなどしているが、真相は未だ不明である。
  • FBI犯罪捜査官や政府関係者、その他捜査官全般を指す略語「Gメン」(“government men”の略)は、武装した捜査官がディリンジャーを包囲した際に彼が叫んだ「撃たないでくれ!Gメン!」と言う言葉から来ていると言う説がある(「Gメン」に関しては、同時代に活動したギャングマシンガン・ケリーがFBI捜査官に叫んだ言葉との説もある)。
  • アンナ・セージの例によってアメリカでは、「赤いドレスの女」("the lady in red")とは「自分を破滅へ導く運命の女」を意味する用語として使われている。

大衆文化への影響

義賊的なディリンジャーの人生はしばしば映画や音楽など、大衆文化の主題として採り上げられている。

映画

音楽

小説

脚注

  1. ^ ジョン・トーランド『ディリンジャー時代』早川書房、1968年、23p頁。 
  2. ^ ジョン・トーランド『ディリンジャー時代』早川書房、1968年、26p頁。 
  3. ^ ジョン・トーランド『ディリンジャー時代』早川書房、1968年、38p頁。 

外部リンク

  • - at the FBI
  • "John Dillinger: Bank Robber or Robin Hood?" - at Crime Library on truTV.com
  • ジョン・デリンジャーの墓地 - John Herbert Dillinger (1903 - 1934) - Find A Grave Memorial
  • People & Events: John Dillinger, 1903-1934 - American Experience Public Enemy #1 People & Events
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