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ジュール・パスキン

ジュール・パスキンJules Pascin、本名 ユリウス・モルデカイ・ピンカス(Julius Mordecai Pincas)、1885年3月31日 - 1930年6月5日)はブルガリア人の画家エコール・ド・パリ全盛の1920年代モンパルナスで華やかな浪費生活をし「モンパルナスの王子」の異名を得た[1]。「パスキン」は、本名のピンカスのアナグラム

ジュール・パスキン
カフェ「ル・ドーム」のジュール・パスキン(1910年)
原語名Jules Pascin
生誕ユリウス・モルデカイ・ピンカス(Julius Mordecai Pincas)
1885年3月31日
 ブルガリアヴィディン
死没 (1930-06-05) 1930年6月5日(45歳没)
フランスパリ
墓地モンパルナス墓地
国籍 ブルガリアアメリカ合衆国
出身校アカデミー・コラロッシ
著名な実績絵画挿絵
流派表現主義

来歴

ブルガリアのヴィディン穀物商を営む裕福なセファルディムユダヤ人一家に生まれる。1902年ヨーロッパ北アフリカアメリカなどを旅行。ウィーンミュンヘンベルリンなどでデッサンを学ぶ。ミュンヘンで「ジンプリツィシムス」の挿絵画家として専属契約を結び、早くも素描家として高い評価を得る。

1905年パリ移住。本格的に油画に取り組む。この年から「パスキン」の名を用いるようになる。サロン・ドートンヌアンデパンダン展に作品を発表する。1913年ニューヨークで行われた大規模な展覧会「アーモリー・ショー」に選抜され出展(アーモリー・ショーはアメリカで初めて本格的にヨーロッパのモダンアートが紹介された展覧会。デュシャンが『階段を降りる裸体No.2』を出展し名声を博した)。

1914年第1次世界大戦を逃れてロンドンへ。ニューヨークへ行き展覧会に出品。具象的な作品を描き始める。その後、フロリダキューバへ行く。1918年にエルミヌ・ダヴィットと結婚し、アメリカの国籍を取得。

第1次世界大戦終結後の1921年、パリのモンマルトルに居を定める。独自の画風を確立し、成熟期を迎える。カフェの「ル・ドーム」や「ラ・クーポール」やナイトクラブを舞台に、彼の取り巻き数十人を引き連れて浪費を繰り広げるなど華やかな社交生活を送るも、アルコール依存症鬱病に苦しむようになる。そして、友人でノルウェー人画家の(ペル・クローグ)の妻のリュシーと不倫関係になるが、酒と麻薬にまみれた自堕落な生活が原因で別れる。

1930年6月5日、自宅アトリエ浴槽で手首を切ったうえ、首を吊って自殺。ドアに文字で「Adieu Lucy」(さよなら、リュシー)と書かれていた[2]

パスキンの葬儀が行われた6月7日、パリのすべてのギャラリーは閉じてに服した。サントゥアン墓地までの5km近い道のりを、何千人もの知人がパスキンのの後に列を成したという。彼の遺体は一年後、モンパルナス墓地に再埋葬された[2]

脚注

  1. ^ “Jules Pascin, Ecole de Paris” (フランス語). www.galeriedesmodernes.art. Galerie des Modernes. 2020年2月16日閲覧。
  2. ^ a b Nadine Nieszawer et Déborah Princ (2015年). “JULIUS PASCIN (JULIUS MORDECAÏ PINKAS DIT)” (フランス語). www.ecole-de-paris.fr. Artistes juifs de l’école de Paris 1905-1939. 2020年2月16日閲覧。

参考資料

Nadine Nieszawer et Déborah Princ, Artistes juifs de l’école de Paris 1905-1939, Somogy éditions, 2015

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