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ジュリオ・チェザーレ (戦艦)


竣工時の「ジュリオ・チェザーレ」。
艦歴
発注
起工 1910年6月24日
進水 1911年10月15日
就役 1914年5月14日
除籍 1955年10月29日触雷沈没。
性能諸元
排水量 基準:23,088トン
常備:25,086トン
全長 176.9m
全幅 28.0 m
吃水 9.46m
機関 ブレキンデン式重油専焼水管缶8基とブレキンデン式石炭・重油混焼水管缶12基
+パーソンズ直結タービン、低速型3基・高速型3基4軸推進
最大出力 31,000hp
最大速力 21.5ノット
航続性能 10ノット/4,800海里
燃料 石炭:-トン
重油:-トン
乗員 1,000名
兵装 アームストロング 1909年型 30.5cm(46口径)三連装砲3基
+同連装砲2基
ヴィッカース 1909年型 12cm(50口径)単装速射砲18基
ヴィッカース 1908年型 7.6cm(50口径)単装速射砲13基
アンサルド 1897年型 7.6cm(40口径)単装速射砲6基
45cm水中魚雷発射管単装3基
装甲 舷側:130~220~250mm(水線部)、170mm(水線下部)、110mm(艦首尾部)
甲板:80mm
主砲塔:280mm(前盾)
副砲:110mm(ケースメイト区画)
バーベット部:280mm
司令塔:230mm(最厚部)

写真は「ノヴォロシースク」時代のジュリオ・チェザーレ。
艦歴
発注
起工 1910年6月24日
進水 1911年10月15日
就役 1914年5月14日
除籍 1955年10月29日触雷沈没。
性能諸元
排水量 基準:23,088トン
常備:25,086トン
全長 186.39m
全幅 28.0 m
吃水 10.4m
機関 ヤーロー式重油専焼水管缶8基
+ブルッゾー式ギヤード・タービン2基2軸推進
最大出力 93,300hp
最大速力 28.0ノット
航続性能 20ノット/3,100海里
13ノット/6,400海里
燃料 重油:2,555トン
乗員 1,261名(士官:61名、水兵1,200名)
兵装 OTO 1934年型 32cm(43.8口径)三連装砲2基
+同連装砲2基
OTO 1933年型 12cm(50口径)連装速射砲6基
OTO 1928年型 10cm(47口径)連装高角砲4基
ブレダ 1932年型 3.7cm(54口径)連装機関砲4基
ブレダ 1931年型 13.2mm(75.7口径)連装機銃6基(1941年にブレダ 1935年型 20mm(65口径)連装機銃8基に換装)

「ノヴォロシースク」:1953年
OTO 1934年型 32cm(43.8口径)三連装砲2基
+同連装砲2基
OTO 1933年型 12cm(50口径)連装速射砲6基
OTO 1928年型 10cm(47口径)連装高角砲4基
70-K 1940年型 3.7cm(67口径)連装機関砲6基+同単装機関砲6基
装甲 舷側:130~220~250mm(水線部)、170mm(水線下部)
甲板:135mm
主砲塔:280mm(前盾)
240mm(側盾)
220mm(後盾)
140mm(天蓋傾斜部)
110mm(天蓋水平部)
主砲バーベット部:280mm+50mm
装甲艦橋:260mm(最厚部)

ジュリオ・チェザーレ[1][2]、もしくはジュリオ・チェーザレ[3] (Giulio Cesare) [注釈 1]は、イタリア海軍第一次世界大戦前に建造した弩級戦艦[5]コンテ・ディ・カブール級戦艦の2番艦[6]。艦名は古代ローマの独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルのイタリア語読みに由来する。戦間期に約4年半におよぶ大改装を実施し[7]、高速戦艦へ生まれ変わった[8][注釈 2]第二次世界大戦終結後、賠償艦としてソビエト連邦に譲渡され[10]ソ連海軍の戦艦ノヴォロシースク (Новороссийск) となった[11]。1955年(昭和30年)10月29日、セヴァストーポリで事故により沈没した[12]

艦歴

建造

 
ジュリオ・チェザーレの進水式の写真。

コンテ・ディ・カブール級戦艦は3隻(カブール、チェザーレ、レオナルド・ダビンチ)が建造された[13]。 ジュリオ・チェザーレはアンサルド社に発注されてジェノヴァ造船所で1910年(明治43年)6月24日に起工、1911年(明治44年)10月15日に進水、1914年(大正3年)5月14日に竣工した。これはネームシップカブール(1915年4月1日)よりも早かった[6]

第一次世界大戦

1915年(大正6年)5月24日、イタリアは英仏陣営として第一次世界大戦に参戦した[注釈 3]。 この日、本艦はターラント港で艦隊旗艦コンテ・ディ・カヴール (Conte di Cavour) 、姉妹艦レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci) 、僚艦ダンテ・アリギエーリ (Dante Alighieri) と共に第一戦隊に配備されていた。8月2日、姉妹艦レオナルド・ダ・ヴィンチはターラント停泊中に火薬庫事故で爆沈した[15]。その後、第一次世界大戦中に大きな作戦に参加することはなく、もっぱらティレニア海イオニア海の間で船団護衛任務かオトラント海峡封鎖任務に就いた。

第一次世界大戦後の状況

1923年]大正12年)8月、スペイン国王アルフォンソ13世が弩級戦艦エスパーニャ級戦艦ハイメ1世に座乗してイタリアを訪問した時に、ティレニア海でジュリオ・チェザーレが護衛を行った。1920年代後半にコンテ・ディ・カヴールとジュリオ・チェザーレは2隻とも近代化改装が行われ、不評であった三脚式の前檣は四脚式に改められて煙突の前に配置され、頂上部に射撃方位盤が設置された。また、艦橋の上部にフランス製の三段測距儀が装備された。その後は練習艦任務に配属された。

1930年代になるとヨーロッパで建艦競争が再燃する[16]。フランス海軍はダンケルク級戦艦の建造を開始[17][18]、イギリス海軍はクイーン・エリザベス級戦艦の大改装を実施した[19][20]。イタリア王立海軍の旧式戦艦は、仮想敵国に対抗するため徹底的な近代化改装が行われることになる[21][9]。コンテ・ディ・カヴールは1933年(昭和8年)10月よりC.R.D.A社トリエステ造船所にて、ジュリオ・チェザーレも同年同月にティレニア海造船所ジェノヴァ工場にて近代化改修工事を実施した。コンテ・ディ・カヴールは1937年(昭和12年)6月1日に再就役、ジュリオ・チェザーレは4ヶ月遅れの同年10月1日に改装が終了したことにより、からくも仏海軍の新鋭戦艦ダンケルクの就役に間に合わせた。

ほかのイタリア戦艦も順番に大改装を実施した[注釈 4][注釈 5]

 
大改装後のジュリオ・チェザーレ

第二次世界大戦

イタリアが新世代戦艦の建造や、弩級戦艦の近代化大改装を実施中の1939年(昭和14年)9月1日、第二次世界大戦が勃発した。1940年(昭和15年)6月10日、イタリア[24]、イギリスとフランスに宣戦を布告した[25]イギリス海軍は、アレキサンドリアを拠点とする地中海艦隊(司令長官アンドルー・ブラウン・カンニガム中将)に加えて、ジブラルタルを拠点とするH部隊(司令官ジェームズ・サマヴィル中将)を新編して対抗した[26][注釈 6]

対峙するイタリア側も、戦力的に万全とは言い難かった。イタリア参戦時点で新鋭戦艦(ヴェネト、リットリオ)は竣工したばかりで戦力にならず[29][30]カイオ・ドゥイリオ級戦艦2隻の改造も未了だったので[31][32]、イタリア王立海軍で作戦行動可能な戦艦はジュリオ・チェザーレとコンテ・ディ・カヴールの2隻のみという事態に陥る[33][28]。 同年、王国海軍における最も有望な提督として[34]イニーゴ・カンピオーニ中将が海軍の主力たる第1艦隊司令長官を命ぜられ、旗艦としてジュリオ・チェザーレに座乗した。

大戦初期の7月9日、(イタリア陸軍)の(リビア戦線)を支援する必要が生じた(北アフリカ戦線地中海戦線)。このため、リビアベンガジへと向けたイタリア軍輸送船団の護衛に、艦隊司令長官イニーゴ・カンピオーニ中将の座乗する旗艦コンテ・ディ・カヴールと、姉妹艦ジュリオ・チェザーレが出撃した[注釈 7]。輸送は無事に成功したが、帰路に連合国軍艦隊(カニンガム提督)との海戦が生じた[35](英側呼称“カラブリア沖海戦”、イタリア側呼称“プンタ・スティーロ沖海戦”)

15時14分、巡洋艦部隊同士の交戦によりカラブリア沖海戦がはじまった[36]。15時26分、地中海艦隊旗艦ウォースパイトはイタリア巡洋艦部隊に射撃を開始した[37]。15時48分、コンテ・ディ・カブールとジュリオ・チェザーレは英戦艦ウォースパイトにむけて発砲を開始した[38]。15時53分、ウォースパイトも距離23,700メートルで伊戦艦に対し砲撃を開始した[38]。16時、ウォースパイトの13回目の斉射が距離21,000メートルでチェザーレをとらえた[38]。38.1cm砲弾がジュリオ・チェザーレの機関部に命中、約100名の戦死者・負傷者を出す[39]。火災も発生し、ボイラーの幾つかが使用不能になって速力は26ノットから18ノットへ低下した[39]。イタリア戦艦が煙幕を展開してウォースパイトの視界を遮ったので、同艦はさらに4斉射をおこなったあと16時4分に射撃を中止、目標をイタリア巡洋艦へ変更する[39]。このあと英戦艦マレーヤ (HMS Malaya) がウォースパイトに追いつき、伊戦艦2隻が煙幕に覆われる前に5回斉射したが、命中弾はなかった[注釈 8]。英戦艦の視界からのがれたチェザーレは消火に成功、機関が6基まで復旧し速力24ノットを出せるようになった。イタリア艦隊は煙幕を展開して後退した[注釈 9]


 
カラブリア沖海戦で損傷したジュリオ・チェザーレ

8月から10月にかけて、イギリス地中海艦隊はマルタ島への輸送作戦を実施し、イタリア艦隊は出撃しても交戦せずに退却した[41]。この頃、地中海艦隊に新鋭空母が増強されたので、カニンガム提督は空母によるターラント奇襲を企図した[42]11月12日夜、英空母イラストリアス (HMS Illustrious, R87) から発進したソードフィッシュが夜間奇襲攻撃を敢行する[43]タラント空襲[44]。 わずか20機程度の複葉艦上攻撃機により、ターラントに停泊していたイタリア海軍の主力戦艦6隻のうち[注釈 10]、3隻が大破着底した[注釈 11]。このうちコンテ・ディ・カヴールは、終戦まで戦線に復帰できなかった[注釈 12]。 一方、ジュリオ・チェザーレは無傷であった[49]。この空襲によりイタリア艦隊の戦艦戦力は、高速戦艦ジュリオ・チェザーレと、新鋭戦艦ヴィットリオ・ヴェネト (Vittorio Veneto) に減少した[50]。間もなく近代化改装を終えた戦艦アンドレア・ドーリア (Andrea Doria) が訓練を終え、戦線に復帰する[51]。これによりイタリアの戦艦戦力は3隻となった[50]

11月中旬、ジブラルタルを拠点に行動するイギリス海軍のH部隊は、マルタ島への戦闘機輸送作戦を開始した(ホワイト作戦)。ヴィットリオ・ベネトやジュリオ・チェザーレを含むイタリア艦隊は迎撃のために出動した。続いてイギリス側のMB9作戦に呼応し、再びイタリア戦艦2隻や巡洋艦戦隊が出撃した。11月27日、イタリア艦隊とH部隊の間でスパルティヴェント岬沖海戦が生起した[52]。イギリス側には空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) がおり、同艦が参戦するまえに海戦は終了した。

1941年(昭和16年)1月9日、ナポリ港に停泊していたジュリオ・チェザーレはイギリス空軍の空襲に遭い、爆弾3発の命中を受けて機関にダメージを受け、乗員20名が負傷した。ラ・スペツィアに移動して修理をおこなう[53]。2月9日、H部隊がジェノヴァ軍港を砲撃したので、イタリア戦艦(ヴェネト、チェザーレ)も迎撃のため出撃した[52]((グロッグ作戦))。

1941年後半になると、イタリアの戦艦戦力はリットーリオ、アンドレア・ドーリア、カイオ・ドゥイリオ、ジュリオ・チェザーレの4隻体制となり、戦力的に拮抗を得た。さらに11月から12月にかけてイギリス海軍の大型艦が次々に失われ、地中海に空母がいなくなった[54][注釈 13]。 イタリア戦艦は燃料を工面してイオニア海で行動した。北アフリカのトブルクでは激戦が続いており、イタリア軍はシルテ湾に輸送船団をおくりこむ[58]イアキーノ提督が率いるイタリア戦艦部隊は間接掩護のために出撃したが、12月14日メッシーナ海峡で英潜水艦アージの雷撃で戦艦ヴィットリオ・ヴェネトが損傷し、退却した[59]。イタリア戦艦3隻は再び出撃し、17日夕刻にイギリス巡洋艦部隊と交戦した[60]。イタリア艦隊は圧倒的に優勢だったが、決定的勝利を掴めなかった[61]

1942年(昭和17年)に入ると燃料事情は悪化の一途を辿り、イタリア艦隊の中で大型艦の行動は大きく制限を受けた[62]。このため、イタリア艦隊の行動指針として燃料と人員を小型艦や新戦艦へ回し、アンドレア・ドーリアとカイオ・ドゥイリオは、乗員の数を戦時の維持としては必要最小限にとどめ、軍港の対空防御や練習艦任務に徹した。一方、ジュリオ・チェザーレは「艦内の隔壁配置に問題がある」という判断から、12月に解役されてアドリア海のポーラ軍港で練習艦兼宿泊艦任務に就いた。

1943年(昭和18年)7月10日、連合軍はハスキー作戦を発動してシチリア島上陸作戦を敢行した[63]。イタリア艦隊は出撃せず、作戦に参加していたウォースパイトでは乗組員が落胆していた[64]。 9月8日、イタリアは降伏した[65]。降伏時、イタリア海軍は戦艦6隻を保有していた[66]。本艦は残っていた僅かな乗員によりタラント軍港まで回航し、そこで乗員と物資の補給を受け、マルタ島へと航海して現地で武装解除を受けた[52]。ジュリオ・チェザーレを出迎えたのは、本艦に直撃弾を与えたウォースパイトであった[67]。マルタ島に集められたイタリア艦隊は1944年(昭和19年)6月まで現地で抑留を受け、この中でジュリオ・チェザーレを含む旧式戦艦3隻はイタリア海軍籍に復帰し、シチリア島のアウグスタ港で運用された。

ソ連への引渡し

 
ソ連戦艦「ノヴォロシースク(旧:ジュリオ・チェザーレ)」時代の写真。艦橋の後方に前部マストが装着されるなどしたが、これにより130トンの重量増加となった。

イタリアが降伏すると、ソビエト連邦はイタリア残存艦艇の三分の一を戦利艦として引き渡すよう、連合国に要求した[68]アメリカ合衆国やイギリスは要求に応じず、自軍の艦艇を貸与する[69]。その一環としてイギリス海軍はリヴェンジ級戦艦ロイヤル・サブリン (HMS Royal Sovereign, 05) をソビエト連邦に貸与し、ソビエト海軍は同艦を「アルハンゲリスク」と改名して運用した[70]。だが大戦終結後もソ連は「アルハンゲリスク」を返還しようとしなかった[71]

1947年(昭和22年)2月に締結されたイタリアと連合国との平和条約 (Treaty of Peace with Italy) で、「ジュリオ・チェザーレ」はソ連への賠償艦とされた[11]。1948年(昭和23年)12月9日にアウグスタへ回航[72]。同年12月15日に除籍[72]。艦名は「Z11」となる[72]。1949年(昭和24年)2月6日にアルバニアの(ブローレ)でソ連に引き渡され、「ノヴォロシースク(Новороссийск)」と改名された[72]。なお「ノヴォローシスク」の編入から間もなく、「アルハンゲリスク」(旧ロイヤル・サブリン)はイギリスに返還された[71]

ソ連海軍時代の艦様の変化は以下の通りである。ソ連製のレーダーを搭載するために、塔型艦橋の背後に前部マストを新設してそこにアンテナを装備した。同時期に機関砲をソ連製の3.7cm機関砲に換装し、連装砲架で6基と、単装砲架で6基を甲板上に装備した。同時に射撃指揮装置もソ連製のものに更新された。艦内では主機関の修理が行われ、老朽化したディーゼル発電機はソ連製の物に交換された。この改造により130トンの重量増加となり、後部マストの高さを低めたが重心が上昇して復元性が悪化した。

1955年(昭和30年)10月29日、「ノヴォロシースク」はセヴァストーポリでの事故で転覆した。1時30分に「ノヴォロシースク」の1番砲塔右舷側の水中で大爆発が発生し、浸水により艦首は沈み、艦自体も右に傾斜した[73]。いったんは傾斜は元に戻されたが、水没していた艦首で再び爆発が発生[73]。停泊時に降ろした錨をそのままに艦尾から曳航しようとして、損傷した艦首部に無理な力をかけるという致命的なミスのため浸水が拡大[74]。左への傾斜が増大し、「ノヴォロシースク」は転覆した[75]。総員退艦が発せられなかったため多くが逃げ遅れ乗員608名に加え、他艦から派遣された者も44名が死亡した[76]

入港投錨時に錨鎖を引きずり機雷に触れたことが爆発の原因とされる[76]。セヴァストーポリには第二次世界大戦中のドイツ軍の機雷が残っており、実際に事故後の調査でも付近で32個の機雷が発見されている[77]。なお、過去に同艦はこの位置で十回以上停泊しているなど不可解な点が残っていることから、ロシア誌「スプートニク」の1993年3月号において「イタリア海軍の元士官を中心とするグループによって爆破された」とする推測記事が掲載されるなど、いろいろな憶測を呼んでいる。この事故で、海軍総司令官ニコライ・クズネツォフが責任を問われ、解任された[78]。しかしこれはクズネツォフの責任ではなく、ある種の言い掛かりであった[79]

「ノヴォロシースク」は1956年(昭和31年)2月24日に除籍され、1957年(昭和32年)に浮揚解体された[78]

出典

注釈

  1. ^ 〔伊國〕戰艦チェーザレ[4] 全長 557呎9吋 幅 91呎8吋 吃水 30呎7吋 排水量 21,500噸 速力 23節 備砲(12吋―13門 4.7吋―18門) 魚雷發射管4門 起工 1914年3月 同型艦一隻 カブール
  2. ^ 戰艦 “チエーザレ Cesre[9] 全要目{排水量25,000噸 速力27節 備砲32糎砲10門、10糎砲24門(兩用砲ならん)建造1911年度目下改装中} 伊太利戰艦を論ずるにあたつては、まづこのところ四年越しで建造中の35,000噸戰艦“ヴイトリオ・ヴヱネト Vittorio Venedo” “リトリオ Littorio”の二艦を忘却してはなるまい。このやうな大艦の建造に伊國海軍がまだ慣れてゐないのも、建造が遅れてゐる一つの理由かも知れないが、佛國の同級の戰艦に對抗し、益々その愼重さを加へてゐると考へるのが至當ではなからうか。現在持つてゐる戰艦中には殆ど見るべきものがないが、その中にあつて獨りチヱーザレのみは大々的改装をほどこされ、寫眞に見るやうな姿となつてやがて再現せんとしてゐる。その艦型は“ネルソン”“ダンケルク”を聯想させるものがある。主砲は口徑を増して32糎砲となり、高角砲も10糎四聯装である。從つて排水量も増加し21,818噸から2,500噸増したが、舊に倍する機關によつて速力22節を出すともいはれてゐる。完成後の大體の要目は全長169.8米、幅28.04米、平均吃水8.54米。速力も恐らく27節位出る機關を据えるのではないかといふ噂である。伊國戰艦計6隻(内未成2隻)。
  3. ^ 建造中のイタリア次世代戦艦(フランチェスコ・カラッチョロ級)は建造中止となり[14]、イギリスから輸入した15インチ砲はモニター艦ファー・ディ・ブルーノ、アルフレッド・カッペリーニ)に転用された。
  4. ^ 戰艦 “ドリア Doria[22] 全要目{排水量21,555噸 速力22節 備砲30糎砲13門、15糎砲16門 魚雷發射管(45糎水中)2門 起工1912年3月 竣工1915年5月 建造所 スペチア造船所} 同型艦“デュイリオ Duilio”21,555噸 建造中のもの2隻“ヴイトリオ・ヴエネト Vittorio Venedo” “リツトリオ Littorio”(2隻共35,000噸) 二三年前までは“アンドレア・ドリア”と言つてゐたが、最近は短く“ドリア”と呼んでゐる。主砲は30糎3聯装三基 2聯装二基で其配置は艦型圖に見られる通りである。外に14ポンド砲13門、14ポンド高角砲6門をもつてゐる。戰艦としては舊型のものと言へようが最近其兵装に根本的改造を加へた。伊國戰艦勢力としては他に“カヴール Cavour”及び“ケーザル Cesare”21,818噸があるが、これも目下舊型の面影ない程にスペチア海軍工廠で改装中であつて、これは前檣樓カタパルトなど列國海軍の戰艦型式に從つてゐるらしい。現有勢力は以上の4隻86,532噸である。
  5. ^ 伊太利[23] 一九三四-四〇年度海軍豫算中七億リラの其の後の増加があり、總計二十七億三百萬リラとなる。之はリットリオ級の新三五,〇〇〇噸級戰艦四隻を含み、一九四一年迄に伊太利艦隊をば言明したる通り總計七〇〇,〇〇〇噸の勢力に引上げんとする企圖に從ふものである。
     戰艦 三五,〇〇〇噸級のリットリオ及ヴィツトリオは完成し、前者の寫眞は爰に掲載(畧)せる通りである。兩艦の特性中主砲八糎砲九門、契約速力三〇節が含まれるが、一九三九年十月の公試に依れば此の速力を超過したと言はれ二る。兩艦は一九三四年十月起工以來、建造に要せし期間は五箇年少しく餘であつた。然し此の級の第三艦及び第四艦の行程は比較的急速なる進捗を示し、イムペロは去る十一月十五日ゼノアのセストリ・ボネンテに於けるアンサルド造船所により造船臺にあること僅か十八箇月の後進水した。/ 本年は舊型戰艦アンドレア・ドリア及カイオ・デ・デュイリオの改装が完了する筈であり、之はコンテ・デイ・カヴール及ギウリオ・セザールの改装と同様の方針で進捗しつゝあるものである。(以下略)
  6. ^ 地中海艦隊に配備されていた英戦艦は、第一次世界大戦にも参加した老朽艦のクイーン・エリザベス級戦艦リヴェンジ級戦艦であり[27]、この時点で完全に近代化されていたのはウォースパイト (HMS Warspite) だけだった[28]
  7. ^ 戦艦部隊のほかに巡洋艦部隊も出撃し、こちらはリッカルド・パラディーニ中将が率いていた。
  8. ^ 速力21ノットしか出せない英戦艦ロイヤル・サブリン (HMS Royal Sovereign, 05) はウォースパイトに追いつけず、この海戦で何の役割も果たさなかった[39]
  9. ^ カニンガム部隊もイタリア空軍機に襲撃され、さらに潜水艦の待ち伏せを警戒して追撃をやめた[40]
  10. ^ 戦艦6隻(リットリオ、ヴィットリオ・ヴェネト、カイオ・デュリオ、コンテ・デ・カブール、アンドレア・ドレア、ジュリオ・チェザーレ)、重巡5隻、軽巡4隻、駆逐艦多数が停泊していた[45][46]
  11. ^ 新鋭戦艦リットリオ (Littorio) に魚雷3本命中、戦艦カイオ・デュリオ (Caio Duilio) に魚雷1本命中、コンテ・デ・カブールに魚雷1本命中[47]。英海軍はソードフィッシュ2機を喪失した[47]
  12. ^ 姉妹艦コンテ・ディ・カブールは1941年(昭和16年)7月に浮揚されたが、修理は進まなかった[45]1943年(昭和18年)10月10日に近海にて自沈処分となったが、1944年(昭和19年)にドイツ軍の手により浮揚され、1945年(昭和20年)2月15日に連合軍機の攻撃を受け再度沈没した[48]。この艦は最終的に、世界大戦終結後の1948年(昭和23年)に浮揚、解体された。
  13. ^ 11月14日、Uボートの雷撃で空母アーク・ロイヤルが沈没した[55]。11月25日、戦艦バーラム (HMS Barham) がU-331に撃沈された[56]。12月19日、アレクサンドリア港攻撃で戦艦2隻(クイーン・エリザベスヴァリアント)が大破着底した[57]

脚注

  1. ^ 世界の戦艦、大艦巨砲編 1998, p. 138aCONTE DI CABOUR/徹底した改装工事で生まれ変わった弩級戦艦
  2. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, pp. 105a-109コンテ・ディ・カヴール級/ジュリオ・チェザーレ
  3. ^ 『世界の艦船 増刊 第175集『英巡洋戦艦「フッド」「リパルス」「リナウン」』 海人社
  4. ^ 軍艦写真帖 1930, p. 163.
  5. ^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 78–81イタリア コンテ・ディ・カヴール級/コンテ・ディ・カヴール、ジュリオ・チェザーレ
  6. ^ a b 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 105b.
  7. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 107.
  8. ^ ジョーダン、戦艦 1988, p. 79.
  9. ^ a b ポケット海軍年鑑 1937, p. 143(原本268-269頁)戰艦チヱーザレ
  10. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, pp. 181a-182☆イタリア☆ ジュリオ・チェザーレ
  11. ^ a b 世界の戦艦、大艦巨砲編 1998, p. 149a戦艦「ノヴォロシースク」/戦利艦として手に入れた「ノヴォロシースク」
  12. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 109.
  13. ^ 世界の戦艦、弩級戦艦編 1999, pp. 158–159三連装砲塔をいち早く採用したイタリア戦艦
  14. ^ 世界の戦艦、弩級戦艦編 1998, p. 159.
  15. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 110ド級戦艦レオナルト・ダ・ヴィンチ
  16. ^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 8–10戦艦の新造
  17. ^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 22–23フランス ダンケルク級
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参考文献

  • 木俣滋郎「(8)タラント港空襲」『大西洋・地中海の戦い ヨーロッパ列強戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年2月(原著1986年)。ISBN (978-4-7698-3017-7)。 
  • ジョン・ジョーダン『戦艦 AN ILLUSTRATED GUIDE TO BATTLESHIPS AND BATTLECRUISERS』石橋孝夫(訳)、株式会社ホビージャパン〈イラストレイテッド・ガイド6〉、1988年11月。ISBN (4-938461-35-8)。 
  • 「世界の艦船増刊第20集 第2次大戦のイタリア軍艦」(海人社)
  • 「世界の艦船増刊第22集 近代戦艦史」(海人社)
  • 「世界の艦船増刊第35集 ロシア/ソビエト戦艦史」(海人社)
    • 「世界の艦船1993年9月号」記事「戦艦ノヴォロシースク爆沈事故の詳細」(海人社)
  • 「世界の艦船増刊第41集 イタリア戦艦史」(海人社)
  • 「世界の艦船増刊第83集 近代戦艦史」(海人社)
  • 太平洋戦争研究会、岡田幸和、谷井建三(イラストレーション)『ビッグマンスペシャル 世界の戦艦 〔 大艦巨砲編 〕 THE BATTLESHIPS OF WORLD WAR II世界文化社、1998年11月。ISBN (4-418-98140-3)。 
  • 太平洋戦争研究会、岡田幸和、瀬名堯彦、谷井建三(イラストレーション)『ビッグマンスペシャル 世界の戦艦 〔 弩級戦艦編 〕 BATTLESHIPS OF DREADNOUGHTS AGE世界文化社、1999年3月。ISBN (4-418-99101-8)。 
  • 瀬名堯彦『幻のソ連戦艦建造計画 大型戦闘艦への試行錯誤のアプローチ』潮書房光人社、2017年、(ISBN 978-4-7698-3016-0)
  • V.E.タラント『戦艦ウォースパイト 第二次大戦で最も活躍した戦艦』井原祐司 訳、光人社、1998年11月。ISBN (4-906631-38-X)。 
    • 第七章 ―「Mare Nostrm(我らの海)」/第八章 ― カニンガムの池
  • 永井喜之、木俣滋郎『新戦史シリーズ撃沈戦記・PARTII』朝日ソノラマ、1988年10月。ISBN (4-257-17223-1)。 
    • 第3部 第二次大戦 - 外国編 (20)イギリス空母「イラストリアス」/(23)イギリス軽巡洋艦「ネプチューン」
  • 月間雑誌「丸」編集部編『丸季刊 全特集 写真集 世界の戦艦 仏伊ソ、ほか10ヶ国の戦艦のすべて THE MARU GRAPHIC SUMMER 1977』株式会社潮書房〈丸 Graphic・Quarterly 第29号〉、1977年7月。 
  • 三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN (4-257-17254-1)。 

関連項目

外部リンク

  • 'Giulio Cesare' (1910)「ジュリオ・チェザーレ」の竣工時から最終時までのスペックがあるページ。(英語)
  • Линкор "Новороссийск" (бывший "Джулио Чезаре", "Giulio Cesare")起工時から「ノヴォロシースク」時代までのジュリオ・チェザーレの写真があるページ(ロシア語)


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