歴史
1910年、合法的活動を目指すメンシェヴィキ(清算派) (リクヴィダートル、後に(祖国防衛派)となる) は、月刊の(ナーシャ・ザリヤ)(ロシア語: Наша заря、「我等の暁光」の意[1])を発行したものの、1914年に廃刊となった[1]。
ポーランド人のエム・エス・レムビッチ(M.S.Lembich。社長。(ルーコスヱ・スローヴオ)紙で従軍記者をしていた)は、オムスクのリュビンスキーで「ナーシャ・ザリヤ」を発行した[2][3]。
1920年、ハルビンにおいて、レムビッチ、ケ・エヌ・シプコフ(編集長。臨時全ロシア政府国立出版部に勤務していた)、(イヴァン・アドリアノヴィチ・ミハイノフ)(元臨時全ロシア政府大蔵大臣)の共同出資により、日刊としてザリアが復刊された[2]。商人のコワリスキーなどからの融資や、グリゴリー・セミョーノフからの補助金も受けていた[2]。
1925年、シプコフとミハイノフは経営から手を引いた[2]。1926年、レムビッチは、上海で(シャンハイ・ザリア) (Shanghai Zaria)を、天津で「ナーシャ・ザリヤ」(Наша Заря、ナーシャ・ザリャー)を発行した[2]。1929年、同業他社の(ルーコスヱ・スローヴオ)と(ルーボル)の権利を約半数取得した[2]。