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サルバドール・アジェンデ

サルバドール・ギジェルモ・アジェンデ・ゴスセンス(Salvador Guillermo Allende Gossens、1908年6月26日 - 1973年9月11日)は、チリの医師、社会主義政治家[1][2][3]1970年から1973年まで同国大統領であった。

サルバドール・アジェンデ
Salvador Allende


任期 1970年11月3日1973年9月11日

出生 1908年6月26日
 チリバルパライソ
死去 (1973-09-11) 1973年9月11日(65歳没)
 チリサンティアゴ
政党 チリ社会党
出身校 チリ大学
配偶者 あり
署名

自由選挙による世界初のマルクス主義者の大統領であったが、政権下のチリは経済的失政やアメリカリチャード・ニクソン政権による国外からの各種経済攪乱工作によって経済が混乱し、国内部の対立も激化した。最終的に1973年9月11日、ニクソン政権やCIAなどの支援を受けたアウグスト・ピノチェト陸軍総司令官率いる軍によるクーデターチリ・クーデター)が発生し、その最中に大統領官邸(モネダ宮殿)で自殺した。

生涯

生い立ち

1908年に、チリの港町バルパライソバスク系移民の子孫として生まれる。父方にはフリーメーソン、世俗教育支持の血が流れており、1891年の内戦では普通選挙と世俗教育と労働者階級の組織化推進を主張するバルマセダの側で戦った。一方の母方は敬虔なカトリックの家系で、1891年の内戦では反バルマセダの側についた[4]。こうした家庭内の対立がアジェンデの内戦嫌悪・武力嫌悪の要因になっていたとする説が有力である。そして転々と引っ越しを繰り返しながら様々な背景をもつ各地の子供たちと接した後、16歳のときに通常よりも早く学校を卒業した。このときすでにチリ社会の不平等を感じていたアジェンデは大学入学を一年遅らせ、陸軍騎兵連隊に正式に入隊した[4]。そして軍隊の中で様々な階級の者たちと直に接する経験を積んだ後、チリ国立大学医学部に入学した。

医師から政界へ

チリ国立大学医学部を卒業した後に医師になった。医学生時代は病院の遺体安置所と精神病院でアルバイトをする間にチリ社会の貧困に直に接した[4]。また、医学生時代には政治活動を始めており、言論の自由をテーマに演説を行った際に聴衆の大喝采を浴び学生のリーダー的存在になっていた[4]。博士論文では、精神病院で働いた経験をもとに精神衛生と犯罪をテーマに執筆したが、そこで彼が提案したことは、公的医療制度の創設や衣食住と教育の問題、国家の役割の拡充など、後に彼が議員として主張することと共通する点が多い[4]

外科医になったアジェンデは病院の遺体安置所の助手として遺体の洗浄と検視に従事し、そこでも貧困に接することになった[4]。1933年にチリ社会党結成に参加し、1935年にはフリーメーソンに入会[4]。そして1937年に国会議員(下院)に選出された。当時のチリでは、社会保険加入率が13%、労働者の収入の87%が衣食住に消えるという有様だったため、アジェンデは国会で「病院に搬入される病人の中で、暖かさと住居だけを必要としている病人が多すぎる」として、政府の医療法案を徹底的に批判した[4]

1938年に急進党を中心とする人民戦線政府が樹立されると、その翌1939年にアジェンデは保健大臣として入閣し、医療施設の建設を柱とするプロジェクトを推進した[4]。さらに、この時期からアジェンデは、チリの天然資源に対する主権を回復するための法案を提出していた[4]

1945年には上院議員に選出された[4]が、社会党の独善的体質を批判していたアジェンデは社会党指導部から締め出され、以後、二度と社会党の役職に就くことはなくなる[4]。そして1948年に親米政権が共産党を非合法化して共産党指導部を強制収容所へ送ると、アジェンデは国会の場で、「マルクス主義を信奉する革命家たる我々に明日にも適用されるだろう」、「今日の社会的組織の自由は見せかけにすぎない。実際に自由なのは、権力と生産手段を支配するごく少数の者だけである」として、当時の政権を徹底的に批判した[4]。また当時、チリの鉱物資源の価格は米国が決めており、チリは低価格で米国に売らざるをえない立場にあった(しかも米国以外には銅を売らないという取り決めにチリ政府は同意していた)ため、そうした状況も批判的に指摘した[4]。1951年には演説の中で「低開発が存在するのは帝国主義が存在するからです。そして、帝国主義が存在するのは低開発が存在するからです」と、反帝国主義の姿勢を明確に示した[4]

大統領選出馬

 
ラウル・カストロとともに(1959年)
 
アジェンデを支援する市民団体(1964年の選挙時)

アジェンデが初めて大統領選に出馬したのは、1952年のこと、社共連合の統一候補としてであった。だが当時は左派弾圧の記憶が生々しく残っていたこともあり、アジェンデは得票率5.6%で惨敗を喫した[4]

そして1956年、社会党と共産党の連合である「人民行動戦線」(FRAP)が結成されると、その統一候補として1958年1964年の大統領選に出馬した。

1958年の大統領選では28.8%の得票を得たが、ホルヘ・アレッサンドリ(独立右派)とわずか3万票、得票率で3ポイント足らずの差で当選を逃した。冷戦下、資本主義陣営の盟主を自認するアメリカ合衆国はアジェンデを脅威と見なし、1964年の大統領選に向け、アジェンデの対立候補(キリスト教民主党のエドゥアルド・フレイ)に大々的な秘密支援を提供するという謀略に着手した[5]。最終的に、1964年の選挙戦でフレイ陣営が費やした資金の半分以上を、ケネディ政権およびジョンソン政権下のCIAが負担するという結果になった[4]。一方のソビエト連邦は、キューバ危機以降は「ラテンアメリカは米国の所有物」との考えを非公式に受け入れていたため、チリの選挙には干渉しなかった。

1964年の選挙ではアジェンデは得票を39.9%まで伸ばしたものの、チリを「進歩のための同盟」による開発計画のモデル国家とすることを目指していた対立候補のエドゥアルド・フレイ・モンタルバが、右派の国民党と中道のキリスト教民主党の一致した支援を受けたため、大差での敗北となった。だが、アジェンデの敗北の最大の要因は何と言ってもケネディ政権およびジョンソン政権による対チリ選挙干渉だった。フレイ陣営は、1964年の選挙戦で費やした資金の半分以上をCIAから受け取っていた。CIAはアジェンデを鬼として描くプロパガンダも大々的に展開した。チリを「進歩のための同盟」のモデル国家にしようと目論んだのもジョンソン政権である[4]。とりわけ、CIAが秘密裏に注入した資金援助が効果を発揮した。1958年の大統領選でフレイが獲得した票は20.7%、1961年の国会議員選挙でキリスト教民主党が獲得した票は15%、そして同年から莫大な秘密資金が米国からキリスト教民主党フレイ派に流入し始めると、1963年の地方選挙で同党はチリ最大の野党に躍進し、1964年の大統領選でフレイは57%という票を獲得するに至った[4]

とはいえ、チリ国内の反共主義勢力や、それを後押しするCIAによる執拗なプロパガンダにも拘らず、アジェンデは労働者の男性を中心に支持を広げていた。続く大統領選挙は1970年であったが、アジェンデ政権の成立を憂慮した各勢力は、最悪の場合軍事クーデターも辞さない構えで、チリ軍部と接触した。しかし、チリ陸軍司令官の(レネ・シュナイダー)(英語版)憲法に則った解決を主張した。

1970年の大統領選

1970年の大統領選挙(9月4日)では、国民党とキリスト教民主党がそれぞれ候補を擁立する中、アジェンデは従来の人民行動戦線から参加政党が拡大した人民連合の統一候補として出馬し、得票率が他の2候補を僅差で上回り首位となった。

憲法の規定に則り、首位のアジェンデと次点のホルヘ・アレッサンドリ(国民党)による決選投票(10月24日)が議会で行なわれることになった。米国のニクソン大統領は9月15日、この決選投票でのアジェンデ当選を「何としても」阻止するよう、キッシンジャー大統領補佐官とCIAに命じた[4]。手段は問わない、資金面の遠慮も不要とのことだった。この命令を受け、CIAは議員買収と軍事クーデターという2本立ての謀略に着手したが、議員買収は思惑通りに行かなかった[4]。一方の軍事クーデター計画の一環としてCIAはシュナイダーの排除を目論み、軍部の反シュナイダー派に機関銃と銃弾を譲渡、シュナイダーは10月22日に銃撃され暗殺された(25日に死亡)。

大統領就任

自由選挙による社会主義政権

 
アジェンデ内閣(1970年)

しかし、この暗殺は完全に裏目に出ることとなった。シュナイダー暗殺に反発してキリスト教民主党がアジェンデ支持に回ったことにより、153対35の大差でアジェンデが大統領に選出され、世界史上初の自由選挙による社会主義政権が成立した。

就任後は人民連合の綱領に従い、重要な産業の国営化と農地改革を進めた。外交面では広く世界に友好国を探し、キューバやソ連との友好も促進した。ただしそれはあくまでも対米依存から脱するためであり、共産圏と特別な協力関係を結ぶことは考えておらず、ソ連の側もチリと親密な関係を結ぶことは考えておらず、そのことを米国政府も認識していた[4]。同時期に隣国ペルーで「ペルー革命」を推進していたフアン・ベラスコ・アルバラード政権との友好関係も確立され、アジェンデはベラスコを同志として賞賛した[6]

ただ、国会では、人民連合の与党は、キリスト教民主党、国民党による野党連合に数でおよばず、法案の不成立など、混迷を深めた。

生産手段の国有化に対し、富裕層が私有財産返還訴訟を行い、返還の判決が多数でたため、人民連合は司法非難キャンペーンを展開、国家機能は混乱していった。

決選投票前にアジェンデ就任阻止を狙って各種工作を仕掛けた米国のニクソン政権は、アジェンデ就任後も彼の政権を打倒するための軍事クーデターを画策し続けた。チリの経済を混乱させ、チリ国民に絶望感を抱かせ、それを口実に軍が動くよう仕向けるという工作を推進した。

まず最初に手がけたのが金融封鎖だった。米国の政府機関による対チリ融資を禁じ、米国の銀行および国際金融機関に対し、チリに融資を行わないよう圧力をかけた[4]。チリの輸出収入の80%を占めていた銅の輸出と生産を妨害する工作も行った[4]。さらに、金融封鎖に起因する物不足を口実に、「からなべ」デモなるものを富裕層の婦人連に実行させた(1971年12月)。これは全てのチリ人女性がアジェンデに反発しているように見せかけることを狙った工作で、ファシスト組織の協力を得て実行された[4]。また、トラック所有者の協会に資金を提供し、トラック所有者たちに長期にわたるストライキを敢行させた(1972年10月と1973年7月)。このストライキはチリの流通を麻痺させ、チリ経済に大きな打撃を与えた。さらには、中間層から支持を得ていたチリ最大の政党であるキリスト教民主党に秘密資金を注入し、アジェンデ就任時に彼を支持していた同党をクーデター支持に転向させることに成功した。

成果を上げる経済攪乱工作

 
閣僚たちとアジェンデ(1971年)

こうした国外からの妨害工作は見事に成果を上げ、物資の不足とインフレを招いた。それに加えて、アジェンデ政権の経済的失政を指摘する声もある。

当初、アジェンデ政権のペドロ・ブスコビッチ経済相の経済政策は政府支出の拡大、国民の所得引上げによって有効需要を生み出すことにあり、そのための手段としての賃金上昇政策と農地改革が採用された。人民連合の綱領でも謳われていたこの農地改革は驚異的なペースで進み、フレイ政権が6年間で収用したのと同等の農地面積が就任からわずか1年で収用された[7]。地主には30年国債という形で支払いが行われた[4]。ただ、急激なインフレ(実態の為替レートでもチリエスクードは6分の1以下となっていた)、国債は紙くず同然になっていた。

さらに、それまでチリの銅産業を支配しており、税制の関係からチリにとって極めて不利な資本流出を起こしていた米国系のアナコンダ・カッパー・マイニング・カンパニーやケネコット・カッパー・カンパニーなどの外資系鉱山会社が国有化の上でコデルコに統合され、チリの銅山は「ポンチョを着て、拍車をつけ」チリの下に戻った[8]。この銅山の国有化はチリの国会で全会一致で可決されたものである。その国有化法は「公正なる補償」を原則としており、過去における過剰利益を補償額から差し引くことを可能としていた。しかし、過去の過剰利益を計算した結果、補償額よりも控除額の方が大きくなってしまい、原則は有償だったが実質的には無償という結果になった。これについてニクソン政権は「無償で接収した」と喧伝したが、チリの会計検査院は国有化法を支持し「補償は不要」との決定を下した[4]。それどころか、5億ドルの超過利潤が有るとして米国に請求、米国は態度を硬化させた。

こうした政策に関連して、チリの外貨準備高が1971年末に3000ドルにまで減少するなど急速に底をついたのは、チリ経済の実力に見合わない支出拡大のせいだったとする説がかつては聞かれた。とはいえ、軍事クーデターを引き起こすべくニクソン政権が実行した金融封鎖政策と国営銅産業に対する妨害工作、トラック所有者に実行させたストライキがチリ経済に深刻な影響を与えたのは事実である[9]。結果的に、民間投資は激減し、更なる資本流出が進む悪循環が生じた。

クリントン政権期に膨大な数の公的文書が機密解除された現在では、「ニクソン政権による金融封鎖その他の経済攪乱工作はアジェンデ政権混乱の一因であった」とする説が有力である[要出典]

深刻化する経済混迷へ

 
ソビエト連邦キエフを訪問したアジェンデ(1972年)

米国のニクソン政権はキリスト教民主党右派(フレイ派)に対する資金提供を続けた。その結果、同党は右派が牛耳るようになり、1971年末ころから同党は国民党をはじめ他の野党とともに人民連合政府を批判するようになった。さらに1972年6月には人民連合内部での路線対立が尖鋭化した。アジェンデはキリスト教民主党との妥協を図り、社会主義的な経済政策を追求するブスコビッチ経済相を更迭し、物価凍結令を解除した途端に急速にインフレが進行、チリエスクードは公定レートに比べ、実質レートは6倍以上となった。経済回復を重視しようにも、外貨浪費のため、改善の方法が限られた。更に、アジェンデは社会党強硬派アルタミラーノを抑えることができず、国会運営は混迷していった。しかし経済の衰退に歯止めがかからず、チリ国内では悪性のインフレが進行し、物資が困窮して社会の混乱を招いた。

同年9月にトラック所有者連盟のストライキが始まったが、このストは10月に入ると全国的な規模に拡大し、1ヶ月以上続くことになった。このような国内の混乱に対抗し、内戦の危機に備えてアジェンデは軍から立憲派の陸軍司令官カルロス・プラッツ将軍を入閣させた。トラック所有者のストは11月に終息したが、経済の衰退に歯止めがかからないことには変わらず、極右と極左の衝突、混乱は激しさを増すことになった。

こうした混乱の源泉は、米国政府とその背後にある米国多国籍企業にあることをアジェンデは見抜いていた。一方、農村の急速な国有化で、アジェンデ政権の3年間で、小麦の収量は3分の一以下に激減していた。政権下彼は1972年12月の国連総会の場でチリの現状を訴え、多国籍企業の蛮行を糾弾した。とりわけ、長年にわたってチリの銅を搾取し続けた米国企業については次のように手厳しく語り、スタンディングオベーションを浴びた。そして、モスクワを訪問してクレジットを要請したが、回収の見込みが薄いと、本来友好国であるはずのソ連にまで見放された。

これらの企業はチリの銅を長年にわたって搾取してきました。過去42年間だけで40億ドル以上の利益をチリから持ち出しましたが、彼らの初期投資は3000万ドルにすぎません。これがチリにとって何を意味するのかを示す痛ましい例を挙げましょう。我が国には、生まれて8か月の間に最低限の量のタンパク質が与えられなかったがゆえに通常の人間らしい生活を送ることが生涯できないであろう子供たちが60万人います。40億ドルもあれば完全にチリを変えることができるでしょう。その額のごく一部だけでも、我が国のすべての子供たちのタンパク質を確保するに十分なのです[4] — サルバドール・アジェンデ

クーデター

 
爆破されるモネダ宮殿
 
破損し血痕の付いたアジェンデの眼鏡

前節の経済的混乱は、労働者からは「反対派による陰謀」とされ、結果として労働者の団結を促進する結果となった、とする説もある。いずれにせよ、1973年3月の総選挙で人民連合は大統領選より更に得票率を伸ばした。こうした状況に直面したニクソン政権および「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれるシカゴ学派経済学者は、チリの民衆が社会主義に憧れていることを悟り、チリ社会を根底から作り変える必要があるとの決意を固めた。シカゴ・ボーイズたちはミルトン・フリードマンの教えを受け、チリを自由市場経済(今で言う新自由主義経済)の実験場にしようと目論んでいた[4]。つまり、徹底した弾圧によってチリ民衆を沈黙させるしかないとの決意を固めた。

チリ全土でストやデモが勃発する中、6月29日には陸軍の一部将校らが首都サンティアゴのモネダ宮殿(大統領官邸)を襲撃するが、プラッツ将軍の軍への統制による努力により、このクーデター未遂事件((タンキタソ)(スペイン語版、英語版))は失敗した。この事件に際して個々の職場を守るようアジェンデが労働者に呼び掛けると、500以上の工場が政府の直接統制に置かれた[10]。とはいえ生来の内戦嫌い・武装嫌いだったアジェンデ[4]が武器の使用を禁じたため、労働者と軍の間での内戦の危機は避けられた。

この未遂事件を受け、チリ軍部もCIAもクーデター決行は時期尚早と判断した[4]。しかし、米国から潤沢な資金援助を受け続けていたキリスト教民主党は、クーデターという事態になれば軍は自分たちに権力の座を譲るだろうとの計算のもと[4]、8月22日にアジェンデ政権を違憲とする決議案を下院で採択した。これによりチリ軍部にとってのクーデターの正当性が確立し、それまで軍部を支援し続けてきた米国政府[4]を喜ばせる行動に出る気運が上層部で盛り上がった。市民への実弾発射事件で、評価を落としていたプラッツは、自宅まで押し寄せるデモ隊に対抗できす23日に辞任し、後任にアウグスト・ピノチェト将軍を推薦する。この時点でピノチェトはすでに秘密裏にクーデター派と接触していた[4]が、プラッツもアジェンデも、ピノチェトは政府に忠実だと信じていた。ピノチェトも翌24日の就任式で政府に対する忠誠を誓った。

クーデターを煽るCIAの動きを察知していたアジェンデは、自らの政権の信任を問う国民投票に訴えようとした。しかし、社会党急進派のアルタミラーノは、国民投票可決の見込みは薄いと国民投票を反対した。アジェンデは、出身母体である社会党すら抑えることができなくなっていた。彼は9月9日、ピノチェトに「近日中に国民投票の実施を発表するつもりだ」と伝えた[4]。これを聞いたピノチェトは、同日海軍と空軍のクーデター首謀者と相談し、決行日を当初の14日から11日に早める事を決定。ただ、メリノによれば、ピノチェトはクーデター参加に最後までためらった。翌10日、それを知らないアジェンデは閣僚会議の場で、発表日を11日と決定した[4]。しかし、アジェンデの声が国民の耳に届く前の11日早朝、陸海空三軍のトップとカラビネーロス(国家警察隊)のナンバー2が協力してクーデターを引き起こした。アジェンデはクーデター軍と大統領警備隊の間で銃弾が飛び交う中、国民に向けたラジオ演説を6度行った後に死亡した(死因については後述)。その6度の演説の中で「武器をとれ」と呼びかけることは一度もなかった[4]。ピノチェトがクーデターの陰謀に加わっていることをアジェンデが悟るのは、この11日のクーデターの最中のことである[4]

ラテンアメリカでは現在でも「9・11」というと、2001年アメリカ同時多発テロ事件ではなく、1973年のチリ・クーデターを指す事も多い。先述のプラッツ将軍はクーデター直後の9月15日にアルゼンチンへ亡命するが、翌1974年9月30日にピノチェトの創設した(DINA)(英語版)(秘密警察)の仕掛けた車爆弾により、ブエノスアイレスで妻とともに暗殺された。

死後

 
アメリカのキッシンジャー国務長官を迎えるピノチェト(右端、1976年)
 
モネダ宮殿前のアジェンデの銅像

チリ・クーデターの後、首謀者の一人であったピノチェトが「最年長だから」との理由で軍事評議会の委員長に就任[4]。その後、自らが創設して自らに直属する秘密警察DINAを使ってライバルを遠ざけ、独裁体制を固めた。また、経済の知識のなかったピノチェトはフリードマン傘下の「シカゴ・ボーイズ」を経済顧問に迎え、それに盲従して「純粋な資本主義」「自由市場経済政策」を推進した。その結果、中産階級は消滅し、ごく一部の富裕層と大多数の貧困層に二分される社会になった[4]

アジェンデとは正反対の考え方の経済政策が、恐怖政治によってチリ民衆に押し付けられる結果となった。それと併行して、アジェンデと同様の自主独立ナショナリズムがラテンアメリカに広がることを恐れた米国[4]は、ラテンアメリカ諸国に対する恐怖の見せしめとして、また多国籍企業にとって都合のよい経済体制の国として、ピノチェト独裁政権を支援し続けた。その17年に亘る軍事政権下で数千人(数万人という説もある)の反体制派の市民が投獄・処刑された。国外に避難した者は100人あたり2人程度と見積もられている[4]

経済面では、ピノチェトはシカゴ・ボーイズの助言に忠実に従ったものの全く好転する気配を見せず、1974年には375%というインフレを記録した[4]。もともと富裕層を富ませることを考えていた経済政策だっただけに、貧富の差が拡大するのも当然のことで、自由貿易主義と貧富の格差というチリ特有の状況は今日まで引きずられている。なお、ピノチェト政権時代の国家や社会を構成する様々な指標の統計は、民政復帰後から2011年現在に至るまで、チリ政府のウェブサイトでも、国連やその他の国際機関のウェブサイトでも、確認不可能な統計資料として空白になっている(一般的に独裁政権下では国家や社会の統計は非公開であるか、公開されても民主主義国と比較して信用度が低い)。そのため、今日においても検証が困難となっている[11][12][13]

ピノチェト政権を経済面でも物資面でも軍事面でも支援し続けた米国政府は、1986年の残虐事件(火あぶり事件)をきっかけに対ピノチェト支援が米国内で議論の的になるまで、一貫してピノチェトを支援し続けた。また、ピノチェト軍事政権による人権侵害も、黙殺するだけでなくプロパガンダ工作によって隠そうとし続けた[4]

死因

アジェンデの死因について、クーデターを率いたピノチェトは当初「モネダ宮殿でキューバフィデル・カストロから贈られた自動小銃を使い自殺した」と発表した。しかし、その「フィデル・カストロから私のよき友サルバドール・アジェンデへ」という刻印が彫られた金板が取り付けられていたとされる銃も弾も見つかっていない上、軍は遺族に遺体を見せなかったため、長年「軍との交戦による戦死」もしくは「軍によってその場で殺害された」との説も根強く論じられた。

2011年5月23日、チリ司法当局は長年の論争に決着をつけるため調査を行い、アジェンデの遺体を墓所から発掘し、外国人も含む専門家チームによって鑑定を始めた[14]。7月19日、チリ政府は「カストロから贈られた銃によって自らの頭を撃ち抜いたことが確認された」と発表し、娘のイサベル・アジェンデ上院議員もこの結果を受け入れることを表明した[15][16][17][18]

国内外の評価

チリ国内ではピノチェト同様、評価は未だに二分されている。親ピノチェト派、つまり親米の特権階級だった者、ファシスト組織のメンバー、ピノチェトのネオリベ政策から恩恵を得た多国籍企業関係者たちにとっては、左転回により国に混乱をもたらした(実際に混乱をもたらしたのは軍事クーデターを引き起こすことを狙ったCIAなので、この主張は見事にCIAのプロパガンダにはまった虚構なのだが)、あるいは平等社会を実現しようとした、あるいは銅をチリ国民のものにした(銅は今も多くの実業家が民営化したがる国営産業である)唾棄すべき存在である。一方で、前政権(フレイ政権)期に抑圧と貧困を押し付けられた一般チリ国民や、ピノチェトの圧政とネオリベ経済政策に苦しめられた多数の一般チリ国民からは、今でも英雄視されている。2008年、チリ国民はアジェンデを歴史上最も偉大なチリ人に選んだ[4]

クーデター45周年目にあたる2018年9月に行った歴代大統領に関する支持率調査では、アジェンデを評価する意見(とても良い+良い)は20%、肯定も否定もしない意見(普通)は20%、否定する意見(悪い+とても悪い)は31%、「回答しない」と答えたのは29%となり、未だに評価が分かれていることを示す結果となった[19]

また、カラカスハバナパリボローニャマドリッドマナグアモンテビデオなど、中南米や欧州諸国の各地にアジェンデの名前を冠した通りや広場などが続々と建設されている事例は、チリ国外のスペイン語圏の左派勢力を中心に、死後もアジェンデが一定の評価を得ていることが推測される[20]

2017年大韓民国大統領選挙において共に民主党の有力候補とされていた李在明は、2016年に大統領選に向けた訴えの中で「反乱軍に機関銃を持って闘ったアジェンデの心情で政権交代を越え、国家権力の正常化を図るべきだ」「国と国民のために機関銃を持って命を捧げたアジェンデ大統領ぐらいの覚悟がなければ、韓国社会のその根深い悪習と不義を掘り起こすことができるのか」とアジェンデを引き合いに出した発言をした[21]

なおチリ国内については、ピノチェト軍政期の恐怖の記憶が今も生々しくチリ国民の間に残っているため政治的表明を控える者が多いこと、また、1960年代からCIAが大々的に展開した反アジェンデのプロパガンダ工作(わざわざ社会党員を名乗って一般市民に暴力をはたらくなど)を今も事実として誤認している者が多いと考えられることを考慮に入れる必要があるため、評価の実態を把握するのは難しいとされている。ピノチェトの新自由主義的な経済政策を主導したミルトン・フリードマンがチリの経済を「チリの奇跡」と呼んで自画自賛したことの影響も大きいとされている[要出典]

家族

  • (イサベル・アジェンデ)(英語版) - 娘。民政復帰後の1993年以来、父と同じチリ社会党所属の政治家として活動し、社会党党首や上院議長を務めている。
  • イサベル・アジェンデ・ジョーナ - いとこの娘。小説家。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ Patsouras, Louis (2005). Marx in Context. iUniverse. p. 265. "何十年も前から大規模な民主社会主義運動が行われていたチリでは、1970年に民主社会主義者のサルヴァドール・アジェンデが共産党を含む人民戦線の選挙連合を率いて勝利を収めた。(In Chile, where a large democratic socialist movement was in place for decades, a democratic socialist, Salvadore Allende, led a popular front electoral coalition, including Communists, to victory in 1970.)" 
  2. ^ Medina, Eden (2014). Cybernetic Revolutionaries: Technology and Politics in Allende's Chile. MIT Press. p. 39. "...in Allende's democratic socialism." 
  3. ^ Winn, Peter (2004). Victims of the Chilean Miracle: Workers and Neoliberalism in the Pinochet Era, 1973–2002. Duke University Press. p. 16. "The Allende government that Pinochet overthrew in 1973 had been elected in 1970 on a platform of pioneering a democratic road to a democratic socialism." 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as 『アメリカのチリ・クーデター』. Amazon Services International. (2019) 
  5. ^ ウィリアム・ブルム「チリ 一九六四年~一九七三年 鎚と鎌が子供の額に焼き印される」
  6. ^ 増田義郎/柳田利夫『ペルー 太平洋とアンデスの国 近代史と日系社会』中央公論新社 1999 p.210
  7. ^ 中川文雄/松下洋/遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 1985 p.222
  8. ^ エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫訳『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』新評論、1986年 p.256
  9. ^ 中川文雄/松下洋/遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 1985 p.223
  10. ^ 中川文雄/松下洋/遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 1985 p.228
  11. ^ Instituto Nacional de Estadísticas Las Estadísticas de Chile 2011年7月31日閲覧
  12. ^ UN Statistics Division 2011年7月31日閲覧
  13. ^ OECD Statistics from A to Z 2011年7月31日閲覧
  14. ^ “Chile's buried secrets”. LAT. www.latimes.com (2011年5月23日). 2011年7月21日閲覧。
  15. ^ “Allende’s Death Was a Suicide, an Autopsy Concludes”. NYT. www.nytimes.com (2011年7月19日). 2011年7月21日閲覧。
  16. ^ “Informe del Servicio Médico Legal confirma la tesis del suicidio de ex Presidente Allende”. www.latercera.com (2011年7月19日). 2011年7月21日閲覧。
  17. ^ . asahi.com (朝日新聞社). (2011年7月20日). オリジナルの2011年7月22日時点におけるアーカイブ。. 2011年7月21日閲覧。 
  18. ^ . MSN産経ニュース (産経デジタル). (2011年7月20日). オリジナルの2011年8月28日時点におけるアーカイブ。. 2011年7月21日閲覧。 
  19. ^ “Primera semana de Septiembre - Estudio N°243” (PDF). cadem (2018年9月). 2020年5月12日閲覧。
  20. ^ [1]
  21. ^ “이재명 “피노체트 반란군에 기관총 들고 싸우던 아옌데 대통령의 심정. 목숨 건 투쟁 준비”(イ・ジェミョン「ピノチェト反乱軍に機関銃持って戦ったアジェンデ大統領の心情。命をかけた闘争の準備」)”. ファクトテレビ. http://facttv.kr/facttvnews/+(2016年8月16日).+2018年11月17日閲覧。

参考文献

  • 中川文雄、松下洋、遅野井茂雄『世界現代史 34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社、1985年。
  • 増田義郎、柳田利夫『ペルー 太平洋とアンデスの国 近代史と日系社会』中央公論新社、1999年。
  • 増田義郎編『新版世界各国史 26 ラテンアメリカ史II』山川出版社、2000年。
  • ジャン・コルミエ/松永りえ訳、太田昌国監修『「知の再発見」双書 120 チェ・ゲバラ 革命を生きる』創元社、2004年12月。
  • 安藤慶一『アメリカのチリ・クーデター』Amazon Services International、2019年。
  • サルバドール・アジェンデ、チリ・クーデターに関してはスペイン語版の機械翻訳のほうが、本ページに比べ、格段に偏りが少ない。ただしスペイン語圏では親ピノチェト・反アジェンデのプロパガンダ本が多数残存するため、その影響に注意が必要である。日本語版についても、典拠の明示なき記述は疑ってかかるのが賢明。

関連項目

外部リンク

  • Resolution of August 22, 1973
  • Alternate source of the Resolution of August 22, 1973 (In English, German, Spanish, French, Polish)
  • "Never Again: An essay about the breakdown of democracy in Chile" by José Piñera (examination of events leading up to, and implications regarding, the Resolution of August 22, 1973. (In English, Italian, Spanish) Mirror site
  • Official Government biography (in Spanish)
  • - ウェイバックマシン(2001年4月5日アーカイブ分) by Ewin Martinez
  • Allende Memorial Site (in Spanish)
  • Hannah Cleaver Allende branded a fascist and anti-Semite 12 May 2005 in The Telegraph (UK).
  • Caso Pinochet (in Spanish).
  • Popular Unity of Salvador Allende (in Spanish)
  • Christopher Andrew and Vasili Mitrokhin, Mitrokhin archive: How 'weak' Allende was left out in the cold by the KGB describing relations between Allende and the KGB, including KGB payments to Allende. The Times September 19, 2005
  • Previously unreleased interview with Allende by Saul Landau in 1971, published by La Nacion on September 24th, 2005.
公職
先代
エドゥアルド・フレイ (en
  チリ共和国大統領
第29代:1970 - 1973
次代
アウグスト・ピノチェト
先代
Miguel Etchebarne Rioll
  チリ共和国保健大臣
第4代:1939 - 1942
次代
Eduardo Escudero Forrastal
議会
先代
Enrique Oyarzún Mondaca
  チリ共和国上院議長
1966 - 1969
次代
Tomás Pablo Elorza
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