初代クランブルック伯爵ゲイソン・ゲイソン=ハーディ(英語: Gathorne Gathorne-Hardy, 1st Earl of Cranbrook, GCSI, PC、1814年10月1日 - 1906年10月30日)は、イギリスの政治家、貴族。
初代クランブルック伯爵 ゲイソン・ゲイソン=ハーディ Gathorne Gathorne-Hardy 1st Earl of Cranbrook | |
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生年月日 | 1814年10月1日 |
出生地 | イギリス イングランド・ヨークシャー・ブラッドフォード |
没年月日 | 1906年10月30日 (満92歳没) |
死没地 | イギリス イングランド・ケント・(ヘムステッド・パーク) |
出身校 | オックスフォード大学オリオル・カレッジ |
所属政党 | 保守党 |
称号 | 初代クランブルック伯爵、インドの星勲章ナイト・グランド・コマンダー(GCSI)、枢密顧問官(PC) |
親族 | (第2代クランブルック伯爵)(長男) (アルフレッド)(三男) |
内閣 | (第三次ダービー伯爵内閣)、第一次ディズレーリ内閣 |
在任期間 | 1867年5月17日 - 1868年12月3日[1] |
内閣 | 第二次ディズレーリ内閣 第一次ソールズベリー侯爵内閣 |
在任期間 | 1874年2月21日 - 1878年4月[2] 1886年1月21日 - 1886年2月6日 |
内閣 | 第二次ディズレーリ内閣 |
在任期間 | 1878年3月30日 - 1880年4月18日[3] |
庶民院議員 | |
選挙区 | (レオミンスター選挙区) (オックスフォード大学選挙区)[4] |
在任期間 | 1856年2月19日 - 1865年7月11日 1865年7月11日 - 1878年5月4日[4] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1878年 - 1906年[4] |
経歴
1814年10月1日、(ロー・ムーア製鉄所)の所有者(ジョン・ハーディ)とその妻イザベル(旧姓ゲイソン)の間の三男としてイングランド・ヨークシャー・ブラッドフォードに生まれる[5][6]。
シュルーズベリー校を経てオックスフォード大学オリオル・カレッジへ進学。1836年にバチェラー・オブ・アーツ(BA)の学位を取得した(のちに(マスター・オブ・アーツ)(MA)の学位も取得)[5][6]。さらにインナー・テンプルに入学して弁護士資格を取得し、(北部巡回裁判)に加わった[5][6]。
1855年の父の死去後、政治活動に専念する[6]。1856年から1865年にかけて(レオミンスター選挙区)選出の保守党所属庶民院議員を務めた。ついで1865年から1878年まで(オックスフォード大学選挙区)から選出された[5][6]。
1858年2月から1859年6月にかけて第二次ダービー伯爵内閣の(副内務大臣)を務めた[6]。
1866年7月から(第三次ダービー伯爵内閣)の(救貧法委員会委員長)に就任。1867年5月に内務大臣スペンサー・ホレーショ・ウォルポールがハイド・パークでの暴動を機に内務大臣職を辞すると、代わって内務大臣に転任した。財相・庶民院院内総務ベンジャミン・ディズレーリが中心となって行った(選挙法改正)を補佐。以降ディズレーリの支持者となる。第一次ディズレーリ内閣でも同職に留任[6]。
1874年2月に第二次ディズレーリ内閣が成立すると陸軍大臣として入閣。1876年から1878年にかけて東方問題・露土戦争が発生する中、ディズレーリの親トルコ政策を補佐した[6]。
1876年8月にディズレーリが貴族院へ移籍し、代わってサー・スタッフォード・ノースコート准男爵が庶民院院内総務に就任したが、ハーディは彼との折り合いが悪かった[6]。
1878年3月にはインド担当大臣ソールズベリー侯爵が外務大臣に転任したのに伴い、インド担当大臣に就任し、内閣が終わる1880年4月まで在職した[6]。1878年5月にはハーディとノースコートの対立回避のため、クランブルック子爵に叙せられ、貴族院へ移された[6]。同月、勅許を得て名前を家名を「ゲイソン=ハーディ」に変更した[5]。
1885年6月から1886年2月にかけての第一次ソールズベリー侯爵内閣には枢密院議長や陸軍大臣として入閣した[5]。
1886年8月に第二次ソールズベリー侯爵内閣が発足すると、はじめランカスター公領大臣、ついで枢密院議長に就任し、内閣が終わる1892年8月まで務めた。同月にクランブルック伯爵に叙せられる[5]。
栄典
爵位
1878年5月4日に以下の爵位を新規に叙された[5][7]。
- ケント州におけるヘムズテッドの初代クランブルック子爵 (1st Viscount Cranbrook, of Hemsted in the County of Kent)
1892年8月22日に以下の爵位を新規に叙された[5][7]。
- 初代クランブルック伯爵 (1st Earl of Cranbrook)
- (勅許状による連合王国貴族爵位)
- ケント州におけるヘムズテッド・パークの初代メドウェイ男爵 (1st Baron Medway, of Hemsted Park in the County of Kent)
- (勅許状による連合王国貴族爵位)
勲章
名誉職その他
家族
1838年にジェーン・オアと結婚し、彼女との間にクランブルック伯爵位を継承する長男(ジョン・ゲイソン=ハーディ)や庶民院議員となる三男(アルフレッド・ゲイソン=ハーディ)など5子を儲けた[5]。
脚注
注釈
出典
- ^ 秦(2001) p.509
- ^ 秦(2001) p.510
- ^ 秦(2001) p.511
- ^ a b c UK Parliament. “Mr Gathorne Hardy” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年6月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n Lundy, Darryl. “Gathorne Gathorne-Hardy, 1st Earl of Cranbrook” (英語). thepeerage.com. 2014年6月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l DNB, 1912 supplement
- ^ a b Heraldic Media Limited. “Cranbrook, Earl of (UK, 1892)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年3月17日閲覧。
参考文献
外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by the Earl of Cranbrook(英語)
公職 | ||
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先代 (ウィリアム・ナサニエル・マッセー) | (副内務大臣) 1858年 – 1859年 | 次代 (ジョージ・クライブ) |
先代 (チャールズ・ペラム・ヴィリアーズ) | (救貧法委員会委員長) 1866年 – 1867年 | 次代 (第11代デヴォン伯爵) |
先代 スペンサー・ホレーショ・ウォルポール | 内務大臣 1867年 – 1868年 | 次代 ヘンリー・ブルース |
先代 エドワード・カードウェル | 陸軍大臣 1874年 – 1878年 | 次代 フレデリック・スタンリー |
先代 第3代ソールズベリー侯爵 | インド担当大臣 1878年 – 1880年 | 次代 ハーティントン侯爵 |
先代 初代カーリングフォード男爵 | 枢密院議長 1885年 – 1886年 | 次代 第5代スペンサー伯爵 |
先代 ウィリアム・ヘンリー・スミス | 陸軍大臣 1886年 | 次代 ヘンリー・キャンベル=バナマン |
先代 (サー・アーグトレッド・ケイ=シャトルワース准男爵) | ランカスター公領大臣 1886年 | 次代 ジョン・マナーズ卿 |
先代 第5代スペンサー伯爵 | 枢密院議長 1886年 – 1892年 | 次代 初代キンバリー伯爵 |
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
先代 (ジョージ・アークライト) (ジョン・ジョージ・フィリモア) | (レオミンスター選挙区)選出庶民院議員 1856年 – 1865年 同一選挙区同時当選者 (ジョン・ジョージ・フィリモア)(1856–1857) (ジョン・ポーランド・ウィラビー)(1857–1858) (チャールズ・キンケイド=レノックス)(1858–1865) | 次代 (アーサー・ウォルシュ) (リチャード・アークライト) |
先代 ウィリアム・グラッドストン (サー・ウィリアム・ヒースコート准男爵) | (オックスフォード大学選挙区)選出庶民院議員 1865年 – 1878年 同一選挙区同時当選者 (サー・ウィリアム・ヒースコート准男爵)(1865–1868) (ジョン・ロバート・モウブレー)(1868–1878) | 次代 (ジョン・ロバート・モウブレー) (ジョン・ギルバート・タルボット) |
イギリスの爵位 | ||
爵位創設 | 初代クランブルック伯爵 1892年 – 1906年 | 次代 (ジョン・ゲイソン=ハーディ) |
爵位創設 | 初代クランブルック子爵 1878年 – 1906年 |