グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(ラテン語: Gnaeus Domitius Ahenobarbus、 ? - 紀元前104年頃)は、共和政ローマの政治家、軍人。紀元前122年に執政官を務めた。
経歴
紀元前129年から、レガトゥスとして執政官マニウス・アクィッリウスの下でアッタロス朝の内乱鎮圧に従軍する[1]。紀元前126年に帰国したアクィッリウスは凱旋式を挙行したが、アヘノバルブスは恐らく翌紀元前125年にプラエトルに就任したと考えられている[2]。
紀元前122年、執政官に選出される。同僚はガイウス・ファンニウスであった。アヘノバルブスは前年のプロコンスル、ガイウス・セクスティウス・カルウィヌスを引き継ぎガリア人に対処した。(アッロプロゲス族)が(アリエス族)のトウトモトゥルス王を支援し、親ローマ派のハエドゥイ族の地を荒らし回ったため、軍事的報復を行い、ウィンダリウム(現(ベダリッド)付近)での戦いに勝利した[3]。
翌年もプロコンスルとして、執政官クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アッロブロギクスと共にアッロプロゲスやアルウェルニ族、(ルテニ族)と戦い、これに勝利[4]。紀元前120年に帰国した彼らは盛大な凱旋式を挙行している[5]。またガリアにドミティア街道を敷設し、属州化した[6]。
紀元前115年にはルキウス・カエキリウス・メテッルス・ディアデマトゥスとともにケンソルに選出され、32名の元老院議員を除名する。その中には前年の執政官ガイウス・リキニウス・ゲタやガイウス・マリウスのスポンサーであるカッシウス・スバコも含まれていた。そして一部の歌手などを除いてエンターテイナーを街から追放し、マルクス・アエミリウス・スカウルスをプリンケプス・セナトゥスに指名した[7]。
いつからかは不明だが神祇官にも就任しており、紀元前104年頃に死去したとき、息子が継ぐことはできなかった[8]。
家族
出典
- ^ Broughton Vol.1, p.505.
- ^ Broughton Vol.1, p.510.
- ^ リウィウス『ペリオカエ』61
- ^ Broughton Vol.1, pp.520-521.
- ^ エウトロピウス『首都創建以来の略史』4.22
- ^ Broughton Vol.1, p.524.
- ^ Broughton Vol.1, pp.531-532.
- ^ Broughton Vol.1, p.561.
参考文献
- T. R. S. Broughton (1951, 1986). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association
- T. R. S. Broughton (1952). The Magistrates of the Roman Republic Vol.2. American Philological Association