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ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール

ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール(Gustave Duchesne, Prince de Bellecourt、1817年2月23日1881年7月29日)はフランス外交官で初代駐日フランス帝国領事(後、公使に昇進)。1858年日仏修好通商条約に基づいて日本に派遣され、1859年から1864年までその職にあった[1]

ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール
Gustave Duchesne de Bellecourt
46歳時のデュシェーヌ・ド・ベルクール、1863年
初代駐フランス公使
任期
1859年 – 1864年
前任者(シャルル・ド・シャシロン)(領事)
後任者レオン・ロッシュ
チュニス君侯国フランス公使
任期
1864年 – 1869年
個人情報
生誕 (1817-02-23) 1817年2月23日
フランス王国パリ
死没 (1881-07-29) 1881年7月29日(64歳没)
フランス共和国パリ
国籍 フランス
職業外交官

来歴・人物

1857年、デュシェーヌ・ド・ベルクールはジャン・バティスト・ルイ・グロの下、中国派遣フランス外交団の秘書官となった。このとき、アロー戦争に参加している[2]1858年安政5年)にはグロと共に、日仏修好通商条約の交渉のために来日している。

 
日仏修好通商条約の批准書を将軍に届けるために江戸城に向かうデュシェーヌ・ド・ベルクール一行、1860年2月4日
 
1863年7月2日、生麦事件賠償交渉のためのフランス軍艦セミラリス上での日英仏会議。手前:フランス通訳ブレクマン、幕府通訳。こちら向き(左より):3人の神奈川奉行、フランス公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール、若年寄酒井忠毗、英国海軍オーガスタス・レオポルド・キューパー提督、フランス海軍バンジャマン・ジョレス提督、イギリス代理公使ジョン・ニール

1859年(安政6年)、デュシェーヌ・ド・ベルクールは再び日本に派遣される。日本到着は9月6日8月10日)であり[1]、初代の在日本フランス領事となった[3]。彼の通訳はジラール神父が務めた。

1860年万延元年)、フランス総領事館として利用していた済海寺の前で、デュシェーヌ・ド・ベルクールの召使が襲われ、重傷を負うという事件があった[4]

1861年文久元年)には公使に昇進。幕府に対する姿勢では、英国公使であるラザフォード・オールコックと概ね一致していた。ヘンリー・ヒュースケン殺害事件の後は、抗議のためオールコックと共に一時公使館を江戸から横浜に退去させた[5]

1863年(文久3年)には、生麦事件の解決交渉に関わることになる[6]。デュシェーヌ・ド・ベルクールは中国における西洋諸国の介入例を見ており、日本との外交においても、武力を使用することに賛成であった。1863年7月20日6月5日)の、ジョレス率いるフランス海軍による下関砲台攻撃、同年8月のキューパー率いる英国海軍による鹿児島砲撃の何れをも支持している[7]。しかしながら、彼の好戦的な姿勢はフランス本国政府からは批判されることとなった。当時フランスは他の地域で重要な軍事的懸案を抱えており、日本との摩擦は避けたかったのである[7]

生麦事件の交渉の後、デュシェーヌ・ド・ベルクールは次第に親幕府的な立場をとるようになった。1863年秋に幕府は横浜の鎖港を言い始めたが、各国の公使がこれを拒否する中、デュシェーヌ・ド・ベルクールだけは理解を示し、横浜鎖港談判使節団の派遣を支援した[8]1864年元治元年)、デュシェーヌ・ド・ベルクールはその任務を後任のレオン・ロッシュに譲ったが、老中はフランス政府にデュシェーヌ・ド・ベルクールの留任を嘆願するほどであった[8]。このため、ロッシュも幕府と親密な関係を築くことができ、フランスは幕府の政策により積極的に関与していくことになる[9][10]

デュシェーヌ・ド・ベルクールは、その後総領事としてチュニスに派遣された[11]

その功績により、レジオンドヌール勲章を受章した[12]

出版物

  • La colonie de Saïgon: les agrandissements de la France dans le Bassin du Mekong [5]

脚注

  1. ^ a b Medzini, p.22
  2. ^ Correspondence relative to the Earl of Elgin's special missions to China Great Britain. Foreign Office p.99 [1]
  3. ^ Polak 2001, p.29
  4. ^ Satow, p.34-36
  5. ^ 佐野 p133-145
  6. ^ Polak, p.92
  7. ^ a b Medzini, p.44
  8. ^ a b 西堀 p393
  9. ^ Polak, p.29
  10. ^ Papers relating to the foreign relations of the United States United States. Dept. of State p.491 [2]
  11. ^ Medzini, p.47 [3]
  12. ^ Base de données Mérimée ministère de la Culture et de la Communication [4]

参考文献

  • クリスチャン・ポラック『絹と光 知られざる日仏交流100年の歴史 江戸時代~1950年代』 婦人画報社、2002. (ISBN 4-573-06210-6); (ISBN 978-4-573-06210-8); OCLC 50875162
    (原著Polak, Christian. (2001). Soie et lumières: L'âge d'or des échanges franco-japonais (des origines aux années 1950). Tokyo: Chambre de Commerce et d'Industrie Française du Japon,
  • アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』 坂田精一訳、岩波文庫(上下) 。(ISBN 978-4003342510)
    (原著 A Diplomat in Japan, Stone Bridge Classics, (ISBN 9781933330167)。脚注のページは原著より引用)
  • Medzini, Meron French Policy in Japan during the Closing Years of the Tokugawa Regime Harvard University Asia Center 1971, (ISBN 0674322304)
  • アラン・コルナイユ 『幕末のフランス外交官 初代駐日公使ベルクール』 矢田部厚彦編訳、ミネルヴァ書房〈人と文化の探究〉、2008年、(ISBN 462305182X)
  • 西堀昭『初代フランス特命全権公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールについて(1)』横浜国立大学・横浜経営研究13巻4号(1993)、P357-365
  • 西堀昭『初代フランス特命全権公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールについて(2)』横浜国立大学・横浜経営研究14巻4号(1994)、P389-397
  • 佐野真由子 『オールコックの江戸』 中公新書、2004年。(ISBN 978-4121017109)

関連項目

  • (駐日フランス大使のリスト)(英語版)
  • 日仏関係


外交職
先代
(シャルル・ド・シャシロン)
  フランス帝国
領事/公使

1859年 - 1863年
次代
レオン・ロッシュ
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