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キーウ創始者名誉記念碑

キーウ創始者名誉記念碑(キーウそうししゃめいよきねんひ、ウクライナ語: Пам'ятний знак на честь заснування міста Києва)は、1982年にウクライナ首都キーウ創立1500周年に建てられた記念碑である。 (ドニプロ地下鉄駅)(ウクライナ語版)(パトン橋)(ウクライナ語版)の間のドニエプル川堤防上の(ナボドニツキー公園)(ウクライナ語版)に位置する。「キーウ創始者たちへ」 (ウクライナ語: Засновникам Києва)とも呼ばれる。

キーウ創始者名誉記念碑
Пам'ятний знак на честь заснування міста Києва
「キーウ創始者たちの像 (ウクライナ語: Засновникам Києва)」- 長兄キーイ、弟のシチェクホリフ、妹のリービジ
座標 北緯50度25分44.73秒 東経30度34分08.11秒 / 北緯50.4290917度 東経30.5689194度 / 50.4290917; 30.5689194座標: 北緯50度25分44.73秒 東経30度34分08.11秒 / 北緯50.4290917度 東経30.5689194度 / 50.4290917; 30.5689194
所在地 (ナボドニツキー公園)(ウクライナ語版)
設計者 (ヴァシル・ボロダイ)(ウクライナ語版、英語版)
種類
全長 9メートル
高さ 3.8メートルから4.3メートル
完成 1982
献納 キーウ創始者

概要

彫刻作品は、平らなボートの形をした鍛造で制作されており、キーウの創立者の兄弟であるキーイシチェクホリフ、そしてその妹リービジが描かれている。制作:彫刻家は(ヴァシル・ボロダイ)(ウクライナ語版、英語版)で建築家は(ミコラ・フェシェンコ)(ウクライナ語版)

横顔で描かれたキーイは船の前方を向き、肘を曲げて長く細い槍を持ち、シチェクは顔を横に向けてキーイの直ぐ後ろに立ち、左手には槍を右手には斧を持っている。ホリフは振り返っており、伸ばした右腕でしなやかな弧を描く弓を構えている。

両腕を羽のように高らかに掲げたリービジの像が船首に立っている。リービジは作品彫刻家のボロダイが自身の娘である(ハリーナ・ボロダイ)(ウクライナ語版)をモデルにした。その娘は芸術家でグラフィック・アーティストでもあり、31歳で不治の病で亡くなっている[1].。

花崗岩の台座のふもとには水の泉が広がる。 船の長さは9メートル、高さは兄弟たちの部分は4.3メートル、リービジの部分は3.8メートル。

部分的な崩落

2010年2月23日、鉄筋コンクリートと骨格の金属腐食により記念碑の一部が崩落した。崩落したのは弟のシチェクとホリフの像の部分だった[2][3]。記念碑は3か月以内に修復され、復元された記念碑は2010年5月28日に除幕された。修復には400万フリヴニャが費やされ、彫刻の内部は防水性のあるコンクリートで新しく作り直された[4]

銀行券の画像

1992年、記念碑の画像は1から5000ルーブルカルボーヴァネツィ)の紙幣に採用された。

2001年、リベディの像が(200フリヴニャ)(ウクライナ語版)紙幣に採用された。しかし制作者のヴァシル・ボロダイから画像使用の承諾を得ていなかったため、ボロダイは訴訟を起こした[5]。後に2007年の次代見本からはその画像は消えていた。

類似の像

2001年には、デザインが違うもう一つの創始者達の像が作られ、独立広場に設置された[6]

2022年ロシアのウクライナ侵攻の影響

2022年2月24日ロシアのウクライナ侵攻が始まると、キーウ創始者たちの記念碑は攻撃に備えて金属製足場で囲まれ、合板土嚢で補強と保護がなされた[7]

イタリアの建造物3Dモデルを専門に製作する会社からの申し出によって、創始者たちの記念碑を始めとするキーウの文化遺産は3Dモデルが製作されることになった。3Dモデル製作で得られる形状データによって、もしロシア軍の攻撃によって像が破壊や損失しても、修復と復元の手助けとなることになった[7]

ウクライナ政府はこれと同時にキーフの歴史的及び文化的遺産の重要性をアピールすると同時に、文化財の保全の知恵、知識、助けを広く一般から講う、「#SaveKyiv(キーウを救おう)」デジタル・プロジェクトを立ち上げた[7]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

出典

  1. ^ (ウクライナ語). Свобода. オリジナルの6 квітня 2018時点におけるアーカイブ。. 2018年4月6日閲覧。 
  2. ^ “Gazeta.ua: На Дніпровській набережній впав пам'ятник засновникам Києва (ФОТО)” (ウクライナ語) (2010年2月24日). 2013年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年2月24日閲覧。
  3. ^ “Українська Правда. Київ: Від пам’ятника засновникам Києва відвалилися Щек і Хорив.” (ウクライナ語) (2010年2月24日). 2013年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年2月24日閲覧。
  4. ^ Gazeta.ua (2010年5月28日). “Черновецький на відкритті пам'ятника забув імена засновників Києва” (ウクライナ語). Gazeta.ua. 2022年4月25日閲覧。
  5. ^ “СМИ: Автор памятника основателям Киева подал в суд на Нацбанк” (ウクライナ語). Корреспондент.нет (2010年3月3日). 2013年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年3月3日閲覧。
  6. ^ “” (ウクライナ語). http://ua.korrespondent.net/. ТОВ «Корреспондент» (22 листопада 2001, 10:30). 12 серпня 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。20 вересня 2014閲覧。
  7. ^ a b c “Київ: важливе на 18 квітня | Kyiv. Important info as of April 18” (ウクライナ語). Офіційний портал КМДА - Головна (2022年4月18日). 2022年4月25日閲覧。

関連項目

  • 祖国記念碑 (キエフ)
  • (キーイ、シチェク、ホリフ)(英語版)
  • (ウクライナのロシアとの再統合記念 (像)) - (人民友好アーチ)(英語版、ウクライナ語版)の一部だったが、ロシアのウクライナ侵攻を受けてキーウ市市議会の決定によって除去されたキーウ市に2022年まで存在した像 (ウクライナ語: символ возз'єднання України та росії)
  • (人民友好アーチ)(英語版、ウクライナ語版) - 通称Ярмо: Yarmo

外部リンク

  • キーウ市市議会による#SaveKyivのサイト
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