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カナージ・アングリア

カナージ・アングリア (1669年8月–1729年7月4日)は18世紀インド・(マラーター海軍)(英語版)の指揮官である。史料上ではConajee AngriaないしSarkhel Angré(Sarkhelは艦隊のAdmiralに相当する称号[1])とも表記されている。

Sakal Rajkarya Dhurandhar Vishwasnidhi Rajmanya Rajeshri

カナージ・アングリア

Sarkhel
18世紀(マラーター海軍)(英語版)の提督
原語名
कान्होजी आंग्रे
生誕1669年
インドマハーラーシュトラ州(ラトナーギリー)(英語版)(スヴァルナドゥルグ)(英語版)
死没1729年7月4日
インドマハーラーシュトラ州(アリバグ)(英語版)
所属組織マラーター王国
部門(マラーター海軍)(英語版)
軍歴1689年-1729年
最終階級Sar-Subhedar (Grand admiral相当)
記念
  • (カナージ・アングリア島)(英語版)
  • INS Angre(インド海軍西海軍コマンド本部)
  • アングリア港
  • (アングリア堆)(英語版)
  • クルーズ船Angriya号
配偶者
  • Mathurabai
  • Lakshmibai
  • Gahinabai
子息
  • Sekhoji
  • Sambhaji
  • Manaji
  • Tulaji
  • Yesaji
  • Dhondji

18世紀、カナージはイギリスオランダポルトガルといった、インド沿岸地域への進出を目論む列強を相手に戦った。イギリスやポルトガルの軍勢は彼等の討伐を試みたが、カナージは没するまで無敗の将としてその名を轟かせた。

前半生

カナージは1669年、プネーから6マイル程離れた(マヴァル)(英語版)の丘陵地にあるAngarwadi村で誕生した。姓にあたる「アングリア」はAngarwadi村の地名に由来するもので、一族の元々の姓はSankpalといい、カナージ以前の一族はこの姓で知られていた[2]

歴史学者のスレンドラ・N・センはカナージの出自について「不明瞭な部分が残るが、この地域の貴族階級ではなかった」と結論づけている。(海外領土史資料館)(英語版)所蔵の史料に基づけば、カナージは(ヴェルソバ)(英語版)にある島にて、ヒンドゥーの卑賤な奴隷階級として生まれたという。本人の宗族史においては、彼は「マラーターのクシャトリヤ」と記述されている。しかし近年の歴史学者は、(マラーター)(英語版)のカースト自体が、マラーター王国に仕えていた幾つかのカースト——(コーリー)(英語版)やマラーター・アグリスなど——の集合体であると考えている。(レジナルド・エドワード・エンソーベン)(英語版)は、カナージの祖先を東アフリカ系と比定している[3][4]。歴史学者V. G. Digheの1951年の研究では、Govind Sakharam Sardesaiの著作Selections from the Peshwa Daftarを引用し、カナージとその一族について「高貴なるマラーター」であり「(デーシュムク)(英語版)(ジャーダヴ)(英語版)(ジャグタプ)(英語版)(シトール)(英語版)より低い階級の者との通婚を拒むであろう」と評している[5]。しかしながら、S.R.Sharmaら一部のインド人歴史学者はポルトガルの研究を支持しており、カナージは「マラーターのコーリーの船長」であると信じている[6]

2007年、歴史学者のDr.Arunchandra Pathakは更に時期の遡るコラバ地域関係史料を出版し、これについて「当該地域の勢力関係について信憑性の高い有用な史料であり、統治者・学者・将軍達に係る非常に価値あるものだ」と評価している。また、20世紀後半のK.K.Choudhariもこの史料を高く評価していたと述べる。これらの記録に基づけば、ボンベイ政庁の官僚であったGroseは現地事情に精通し情報量の多い文章を残しており、ヒンドゥー勢力との関係に注力していて、ヒンドゥーのカースト集団を通じカナージの父祖についての情報を得ていた。編者によれば「ありそうもない話である為、その真偽について激論が交わされている」という。Groseの記述では、カナージの祖父はTukaji Sankhpalという名で、ホルムズ湾部生まれのアフリカ系ムスリムである。1643年にチャウルの近海で乗船が難破し、付近でムガル勢力と交戦中であった(シャハージー・ボーンスレー)(英語版)によって救助された。後日シャハージーの従者の娘と結婚し息子Parabをもうけたが、これがカナージの父であるという。これは異邦人の戦士がヒンドゥーの女性との通婚によりヒンドゥー社会の一員になったというひとつの好例である[7]。2009年、南アジア史・インド洋史を専門とするオランダの歴史学者Rene Barendseは、カナージの出自について以下の様に記述し、大いに議論の余地が残ると結論づけた。

Most likely he was a (Son Koli)(英語版). To the British he was of (Siddi)(英語版) (East African) descent, to the nationalist Maratha literature an impeccable Maratha. He adroitly used his vaunted Ethiopian descent to gain ascendancy over the other bands of seafarers and their leaders along the Konkan Coast, a group that the Dutch with some justification called "Shivaji's roving and robbing armadas".[8]
(彼は(コーリー族)(英語版)である可能性が最も高いだろう。イギリスでは彼は(シディ族)(英語版)(東アフリカ系)の裔だとされ、愛国的なマラーターの文筆家達は非の打ち所なきマラーターだと考えている。彼は、コンカン沿岸域の船乗り集団やその統率者達には己がエチオピア人の裔だと巧みに吹聴して支配権を得、オランダ勢力に対しては「シヴァージーの部下が海軍に掠奪を加えて回っている」として正当性を主張した。)

カナージはコーリーの船乗り達と共に育ち[9]、彼等から航海術を習得した[10]

カナージの母はAmbabaiという女性で、父は名をTukojiといいシヴァージー支配下の(スヴァルナドゥルグ)(英語版)砦で200の部下を率いていた[10]。カナージの前半生については、この父に付き従って洋上で戦果を挙げたということ以外は詳らかでない。彼は幼少期の殆どを、後年自らが統治者となるスヴァルナドゥルグ砦で過ごした。

軍歴

カナージは1698年、SarkhelないしDarya-Saranga (Admiral相当)に任じられた[11]。これにより得た権限で彼は、往時のマハーラーシュトラの領域のうち、ジャンジーラーを拠点にムガル帝国の支援を受けていたムスリム(シディ族)(英語版)の支配領域を除く、ムンバイから(ベンガーラ)(英語版)にかけてのインド西部沿岸地域を掌握した[12]

軍人としてのカナージはまずイギリス東インド会社の商船を襲うことで、徐々に植民地支配下地域の人々から支持を得るようになった。1702年、彼はカリカットを出港したイギリスの商船を拿捕し、捕らえたイギリス人乗船員6名と共にこれを母港へ回収した[12]。1707年には帆走フリゲート船Bombay号を襲撃し、爆沈に追い込んだ[12]。イギリス側勢力は、大型ヨーロッパ船を除くあらゆる商船を捕らえ得る将だとしてカナージを恐れた[12]。1707年、シャーフーマラーター王国の王位を得た際、Balaji Viswanath BhatをSenakarta (Commander相当)に任じたいと考え、カナージと交渉の末に合意をとりつけた。この一件からは、マラーター王にも異議を唱え得る陰の権力者ターラー・バーイーが、カナージと背後で繋がっていたことを窺い知れる。合意の条件として、カナージは(マラーター海軍)(英語版)の最高指揮官となった。

 
マラーター海軍有する様々な船種を描いた彩色巻物。主戦力である(グラブ船)(英語版)(ガリヴァト船)(英語版)だけでなく、鹵獲されたイギリス船もみえる。

マラーター王国が弱体化するにつれカナージの立場はより独立性を強めていき、1713年には彼を抑えるべくペーシュワー(バヒロジー・ピンガレー)(英語版)率いる部隊が送り込まれたが、カナージはこれと戦って勝利し、ピンガレーを捕縛した[12]。カナージはシャーフー王の座する都サーターラーへの進軍を企て、王に対し直談判に応ずるよう要求した。この交渉の結果、カナージは全艦隊を指揮下におくSarkhel(Admiral)となり[12]、加えてマハーラーシュトラの26の砦・要塞の支配権をも得た[12]

1720年、カナージはスーラトより中国へ向けて航行中であった交易商カーゲンヴァンの所有するCharlotte号を拿捕した[13]。カーゲンヴァンはその後十年近く囚われたままであった[13]

ヨーロッパ人との協同

カナージは選りすぐった船舶を指揮するため、ヨーロッパ人(多くはオランダ人であった)を雇用していた[12]。更にはジャマイカ海賊の(ジェームス・プランテン)(英語版)を雇い入れ、主砲長として多大な信をおき厚遇した[14]。その他、マヌエル・デ・カストロという人物は、カナージの勢力下にあった(カンデリ)(英語版)島の奪取に失敗した[15]としてイギリスのボンベイ政庁から処罰を受け、寝返ったものと考えられている[16]

本拠地

  • 1698年、カナージは最初の拠点をムンバイから約485kmのテシル(デブガード)(英語版)に位置する(ヴィジャイドゥルグ砦)(英語版)に置いた[17]。この砦はもと(ボージャ2世)(英語版)が築きマラーター王シヴァージーにより増強されたもので[17]、海岸に位置しており船舶が海から砦内部へ直接乗り入れられるような空洞構造になっていた。
  • カナージは指揮の拠点として、アリバグ近隣の防衛拠点化された島々(「(コラバ)(英語版)」)を利用した。(カンデリ)(英語版)の他(ラーイガル県)(英語版)沿岸に近い(ウンデリ)(英語版)(アリバグ)(英語版)砦などがこれに当たり、近海より入港してくる全ての商船から通行税を取り立てていた。
  • ムンバイ南端の港町(アリバグ)(英語版)はカナージが建設したものである[18]。当時この町の中心部であった地域は、今日のラームナートに当たる。カナージは独自の通貨としてアリバグルパイヤ(Alibagi rupaiya)と称する銀貨も発行していた。
  • 1724年、カナージはマハーラーシュトラ(ラトナーギリー)(英語版)に位置する(プールナガド)(英語版)に港を築いた[19] 。当地からは鉄砲7丁と砲弾70発分が出土している[19]。この港では小規模な交易も行われていた[19]

進攻

 
インド・コンカン地域の沿岸部のうち、図で黒塗りされている北寄りの海岸一帯がカナージの支配下にあった

カナージはイギリスポルトガルなどインド西岸近海に展開する列強海軍への攻勢を強めていった。1712年11月1日、カナージの麾下がイギリスボンベイ長官(ウィリアム・エイズラビー)(英語版)所有の武装ヨットAlgerine号を拿捕することに成功した。更にイギリスが(カルワル)(英語版)に有していた商館の責任者Thomas Chownを殺害、その妻を捕縛した。船と夫人が解放されたのは翌1713年の12月13日、身代金30,000ルピーが支払われるに至ってようやくのことであった[20]。この時の解放交渉は直近に占領された地域の返還をも伴うものであり、カナージは東インド会社と協同して他勢力と戦わんと企図したものと考えられる。しかし彼は結局、バーラージー・ヴィシュヴァナートと手を組み東インド会社と戦い続けることを選んだ。[要出典]ゴア近海ではイギリスからボンベイへ航行中の船を拿捕し、東アフリカ人乗船員SomersGranthamを捕虜としている[20]。1712年には、(ポルトガルインド艦隊)(英語版)の30門戦艦を航行不能に追い込み拿捕した[20]

最終的に、カナージとイギリス東インド会社総督エイズラビーとの間で、今後東インド会社所有の船を襲わないという約定が結ばれた。エイズラビーはその後1715年8月頃に本国へ帰還した。

1715年12月26日、エイズラビーの後任として(チャールズ・ブーン)(英語版)がボンベイの長官に就いた。ブーンはすぐさまカナージの捕縛を計画したが成果を挙げられず、1718年には逆にカナージによってイギリス船籍の船3隻を拿捕される被害を受け、彼を海賊と詰った。

1720年、イギリスは再びカナージ討伐の軍を起こした。しかしこの時浮き砲台の弾が暴発して(ヴィジャイドゥルグ砦)(英語版)の岩壁を破壊したため砦を経由した上陸が不可能になり、イギリス艦隊はほどなくボンベイへの退却を余儀なくされた。

1721年11月29日、ポルトガル勢力(インド副王のFrancisco José de Sampaio e Castro)と協同したイギリス軍(司令官(ロバート・コーワン)(英語版))がカナージの討伐を試みたが、これも無惨な失敗に終わった。この時の連合艦隊は兵数6,000、当時最大級のヨーロッパ式軍艦が少なくとも4隻投入され、トマス・マシューズが指揮に当たっていた。カナージ側にはMendhaji Bhatkar以下(マラーター)(英語版)の艦隊が援護についていたため、ヨーロッパ船を襲撃・掠奪し続けることが出来た。戦後マシューズは本国に帰還し、オーストリア継承戦争の勃発で戦線復帰するまで軍務から外れることになった[21]。1723年にはチャールズ・ブーンも本国へ帰還している。ブーンの離任後、カナージが1729年に没するまで、イギリス勢力とカナージらとの関係は比較的平穏に保たれることとなった。

主な戦歴

 
ラトナドゥルグ砦に置かれているカナージの胸像
  • 1702年、コチン近海でイギリス人船員6名の乗った小型船を拿捕。
  • 1706年、ジャンジーラーの地でシディ族を襲撃し勝利。
  • 1710年、ムンバイ近海にてイギリス船Godolphin号との2日間にわたる戦いの末、(カンデリ)(英語版)島を奪取[12]
  • 1712年、(ウィリアム・エイズラビー)(英語版)の武装ヨットを拿捕。30,000ルピーという多額の代価を受けてようやくこれを返還した[22]
  • 1713年、イギリス側からカナージに10の砦の支配権が譲られた[13]
  • 1717年、(カンデリ)(英語版)島に砲撃を行っていたイギリス船Success号をカナージが拿捕。イギリス東インド会社が60,000ルピーを支払うという条件で、カナージは和解協定に合意した。
  • 1718年、ムンバイの港を封鎖し、解除と引き換えに金銭を得た。チャールズ・ブーン率いるイギリス軍が(ヴィジャイドゥルグ砦)(英語版)を襲撃したものの、成果なきままムンバイへの退却を余儀なくされた。
  • 1720年、イギリス軍が再び(ヴィジャイドゥルグ砦)(英語版)を攻撃したが、これも失敗に終わった。
  • 1721年、イギリス艦隊がムンバイへ到着。ポルトガル軍と連合して(アリバグ)(英語版)を攻撃したが、敗北に終わった。
  • 1722年、チャウル近海にて武装ヨット4隻・その他船舶20隻からなるイギリス艦隊を襲撃。
  • 1723年、イギリス船Eagle号およびHunter号を襲撃。
  • 1724年、マラーター勢力とポルトガルとの間で和解協定が結ばれた。オランダ軍が(ヴィジャイドゥルグ砦)(英語版)を襲撃したものの、敗走した。
  • 1725年、カナージとシディ勢力の間で和解協定が結ばれた。
  • 1729年、(パルガド)(英語版)砦を奪取。

最期

 
1756年、イギリスとポルトガルの駐インド艦隊が連合してヴィジャイドゥルグ砦を攻撃した

1729年7月4日、カナージは没し、スーラトから(コンカン)(英語版)南部までのアラビア海統治権を追贈された。嫡子としてSekhojiとSambhajiの2名が、庶子としてTulaji、 Manaji、Yesaji、Dhondjiの4名があった。三昧場(Samadhi、墓所)はマハーラーシュトラ州(アリバグ)(英語版)のシヴァージーチョークに設けられた[18]

カナージの後を継いだ息子Sekhojiは、1733年に没するまでマラーター勢力のため洋上で功を挙げ続けた。しかしSekhojiが亡くなったことで家督争いが起こり、カナージの所領はSambhajiとManajiの2名によって分割された。これに伴いマラーター勢力の海事全体が疎かになっていき、イギリス軍に討滅の好機を与える結果となった。カナージとその子らによるインド西岸支配は、1756年2月、ペーシュワーと連合したイギリス軍が(ヴィジャイドゥルグ砦)(英語版)を襲撃しTulajiを捕縛したことで終焉を迎えた。

印章

カナージが使用していたものとされる印章は3点が見つかっている。1点はチャトラパティラージャーラーム治世時代のもので、他の2点はチャトラパティシャーフー治世時代のものである。

3点の印章に彫られた文とその意味は下表の通りである。

対応するチャトラパティ テキスト 翻訳
 
チャトラパティラージャーラーム期にカナージが用いていた印章
チャトラパティラージャーラーム[23] ॥श्री॥

राजाराम चरणी

सादर तुकोजी सुत

कान्होजी आंगरे

निरंतर

Shri

Tukojiの息子カナージ・アングリアは、ラージャーラームの御為いつまでも海事に尽力いたします。

チャトラパティシャーフー[24] ॥श्री॥

राजा शाहू चरणी तत्पर

तुकोजी सुत कान्होजी आंगरे

सरखेल निरंतर

Shri

Tukojiの息子カナージ・アングリアは、シャーフーの御為に海事をなさんことを切望いたします。

 
カナージ・アングリアの印章
チャトラパティシャーフー[25] ॥श्री॥

श्री शाहू नृपती प्रि

त्या तुकोजी तनुजन्म

ना कान्होजी सरखे

लस्य मुद्रा जय

ति सर्वदा

Shri

シャーフーの寵愛のもと、Tukojiの息子カナージ・アングリアが印は常に勝利と共にあり。

後世への影響

 
マハーラーシュトラ州(アリバグ)(英語版)にあるカナージの三昧場(Samadhi、霊廟)。

カナージ・アングリアは、入植者勢力に対し大きな戦を仕掛けかつその威信に大打撃を与え得た人物として、(マラーター海軍)(英語版)の将の中でももっとも高名である。カナージは、母国沿海部へと侵入してくる敵軍に対して外洋海軍が果たし得る軍略上の役割が非常に大きい、という事実を示した先駆け的存在と目されている。また一方でカナージはヨーロッパ人探検家を自軍に組み入れることにも成功しており、中にはオランダ人でありながら代将まで昇進した者もあった。カナージの艦隊は最大時で100隻単位の軍船・数千の乗員にまで増強され、当時のイギリス海軍はこの膨れ上がった(マラーター海軍)(英語版)勢力に対抗するに十分な海軍力をインド方面に差し向けることができていなかった[26]

カナージがイギリス勢力の貿易を阻害し続けたこと——同時にカナージはイギリス側から海賊との謗りを受け続けたわけだが——と、スワリーの海戦の顛末により、当地にはささやかながら海軍勢力が作り出され、これが結果的にのちの近代インド海軍の礎となるのである。現在ムンバイのインド海軍造船所にはカナージを顕彰する像が据えられている。海軍ドックを見下ろす位置にあったカナージ建造の砦は失われたが外郭だけは現存しており、内部にはインド海軍の西海軍コマンド本部が置かれ、INS Angre(Indian Naval Station Angre)と名付けられている。

2020年、Rahul Jadhavは、Rahul Bhosale製作のマラーターの伝説的海将カナージ・アングリアを題材としたマラーティー語映画を、Kreative Madaries配給で2022年に公開予定であると発表している[27]

一族勢力の終焉

カナージの子孫達はコラバ一帯を1840年代まで支配し続けていたが、1843年、ついにイギリス東インド会社の勢力下に吸収された。イギリス側ボンベイ長官の公式文書の上では、1843年12月30日のことであると記録されている[28]

宗族史の出版

カナージの子孫Chandrojirao Angreおよび同時代人物(ジジャー・バーイー)(英語版)子孫の協力により、1939年にムンバイのアリバグでHistory of the Angresが出版された[28]

後世の顕彰

  • (アングリア堆)(英語版)はマハーラーシュトラ・(ヴィジャイドゥルグ)(英語版)西の沖合105 kmの海中に位置する環礁地形で、カナージの名を取って命名された[29]
  • インド海軍西海軍コマンド本部は、1951年9月15日にカナージへの敬意を表してINS Angreと命名された[30]。同所には他の主要な海軍事務所も置かれている[30]。また昔時(ボンベイ城)(英語版)で作られたカナージの像が、ムンバイ南部にある海軍造船所内の飛地に置かれている。
  • 1999年4月、(インディア・ポスト)(英語版)が発行した1ルピー切手には、カナージ艦隊のグラブ船を描いた1700年代の絵画が用いられている[31]
  • (カンデリ)(英語版)島にあるムンバイ港の南側の境界線を示すための古灯台は、近年カナージ・アングリア灯台と改名されている。
  • Rashtriya Chemicals & Fertilizers社が大規模開発を行った(アリバグ)(英語版)の宅地造成地域に、「Sarkhel Kanhoji Angre Nagar」の名が付けられた。
  • 1995年、(マルバニ族)(英語版)がムンバイのParelで開いたJatrotsav festivalにおいて、大型水槽(70' x 30')と軍船のラジコン模型を用いてカナージとチャールズ・ブーン率いるイギリス艦隊の戦闘を再現する催しが行われた。ラジコン船はチーク材で作成され高トルクモーターを動力源とするもので、制作者はVivek S.KambliとVishesh S. Kambliである。また、マラーター海軍の沿革を描いた3D映像も作成された。この催事は10日間にわたって行われ、数千のムンバイ市民が観覧した。
  • マハーラーシュトラ州(ラトナーギリー)(英語版)の全天候型港は、2012年4月24日、カナージの9代子孫にあたる人物により「Angre port」と命名された[32]

関連項目

脚注

  1. ^ Rajaram Narayan Saletore (1978), p.109.
  2. ^ Manohar Malgonkar (1959). Kanhoji Angrey, Maratha Admiral: An Account of His Life and His Battles with the English. Asia Publishing House. p. 11. https://books.google.com/books?id=YuoeAAAAMAAJ 
  3. ^ Sen, Surendra Nath. The Military System of the Marathas. pp. 170-171. https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.102812 
  4. ^ Hansen, Thomas Blom (2018-06-05) (英語). Wages of Violence: Naming and Identity in Postcolonial Bombay. Princeton University Press. ISBN (978-0-691-18862-1). https://books.google.co.in/books?id=Bf5ZDwAAQBAJ&pg=PA31&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false 
  5. ^ V. G. Dighe (1951). “Provincial Maratha Dynasties”. In Ramesh Chandra Majumdar. The History and Culture of the Indian People: The Maratha supremacy. G. Allen & Unwin. p. 292, 307. https://books.google.com/books?id=zQ9uAAAAMAAJ 
  6. ^ Shripad Rama Sharma (1964). The founding of Maratha freedom. Orient Longman. p. 327. "For a short while, however, this sinister combination against the Marathas on the west coast was neutralised by the rise of a 'Shivaji of the Seas' — the Maratha Koli captain Kanhoji Angre" 
  7. ^ Kolaba district. Government of Maharashtra. https://gazetteers.maharashtra.gov.in/cultural.maharashtra.gov.in/english/gazetteer/Kolaba%20District/histroy_angrias.html#1. "About this time the Angria family, who during the eighteenth century rose to high power both in Kolaba and in Ratnagiri, first came to notice. The founder of the family was Tukaji Sankhpal. According to Grose, a well-informed writer, Tukaji was a negro born in an island in the gulf of Ormuz, a Musalman by religion, who in 1643 was shipwrecked near Cheul. He helped Shahji in his war with the Moghals, married the daughter of Shahji's minister, and had a son named Purab who was the father of Kanhoji. [Account of Bombay, II. 214. Mr. Grose, who was a member of the Bombay Civil Service, wrote about 1750. He was well acquainted with the country, and took special interest in matters connected with the Hindu religion and with Hindu castes. The unlikeliness of the story is a strong argument in favour of its truth. Shivaji's coronation at Raygad in 1674 (see below, Places of Interest) is an example of the case of a man of comparatively low caste rising to the highest rank among Hindu warriors by careful attention to Hindu rules and by liberality to Brahmans. Examples of successful foreign warriors being admitted to be Hindus and marrying Hindu wives are given in the chapter on Thana History. Thana Statistical Account, Bombay Gazetteer, XIII 411 note 3. According to Grant Duff (History, 163) Kaahoji's father was Tukaji a distinguished officer in Shivaji's fleet.]" 
  8. ^ Rene Barendse (2009). Arabian Seas 1700 - 1763: The western Indian Ocean in the Eighteenth Century. Brill(Leiden, Netherlands). p. 409. ISBN (9789047430025). https://books.google.com/books?id=fCywCQAAQBAJ&pg=PA409 
  9. ^ Virginia Fass (1986). The forts of India. Rupa. p. 274. ISBN (978-0-00-217590-6). https://books.google.com/books?id=0-6fAAAAMAAJ 
  10. ^ a b Kurup, K K N (1997). India's Naval Traditions: The Role of Kunhali Marakkars. New Delhi: Northern Book centre. pp. 72–75. ISBN (9788172110833). https://books.google.com/books?id=HKmXcBCKEcAC&pg=PA75 
  11. ^ Rajaram Narayan Salethore (1978) P.99.
  12. ^ a b c d e f g h i Colonel John Biddulph (1907), p.37.
  13. ^ a b c Rajaram Narayan Saletore (1978), p.106.
  14. ^ Rajaram Narayan Saletore (1978), p.102.
  15. ^ Rajaram Narayan Saletore (1978), p.105.
  16. ^ Chinese and Indian Warfare – From the Classical Age to 1870. New York: Routledge. (2015). ISBN (9781315742762) 
  17. ^ a b Madaan, Neha (2012年4月3日). “ASI takes up renovation of Vijaydurg”. The Times of India. https://timesofindia.indiatimes.com/city/pune/ASI-takes-up-renovation-of-Vijaydurg/articleshow/12513354.cms 2012年12月12日閲覧。 
  18. ^ a b epaper (2012年). . The Times of India (epaper). オリジナルの2009年7月6日時点におけるアーカイブ。. 2012年12月12日閲覧。 
  19. ^ a b c Madaan, Neha (2012年1月29日). “Fort mapping to study Maratha architecture”. The Times of India. http://articles.timesofindia.indiatimes.com/2012-01-29/pune/30675845_1_fort-mapping-architecture 2012年12月12日閲覧。 
  20. ^ a b c Colonel John Biddulph (1907), p.38.
  21. ^ “Mathews, Thomas (1676-1751)”. Dictionary of National Biography. 37. p. 44 
  22. ^ [1][]
  23. ^ Sadashiv, Shivade (2006). दर्याराज कान्होजी आंग्रे. Deccan Gymkhana, Pune - 4: Utkarsh Publication. pp. 217, 220 
  24. ^ Shivade, Sadashiv (2006). दर्याराज कान्होजी आंग्रे. Deccan Gymkhana, Pune - 4: Utkarsh Publication. p. 93 
  25. ^ Shivade, Sadashiv (2006). दर्याराज कान्होजी आंग्रे. Deccan Gymkhana, Pune -4: Utkarsh Publication. pp. 218, 298, 314, 316 & 317 
  26. ^ http://www.thepiratesrealm.com/Kanhoji%20Angria.html
  27. ^ “'Kanhoji Angre': Rahul Jadhav is set to bring the valour of THIS Maratha naval hero on the big screen”. The Times of India. (2020年7月8日). https://timesofindia.indiatimes.com/entertainment/marathi/movies/news/kanhoji-angre-rahul-jadhav-is-set-to-bring-the-valour-of-this-maratha-naval-hero-on-the-big-screen/articleshow/76836603.cms 2020年7月17日閲覧。 
  28. ^ a b Govt. of, Maharashtra. “”. Mumbai: The Gazetteers Dept. Govt. of Maharashtra. 2013年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年12月12日閲覧。
  29. ^ Sailing Directions: West Coast of India, Sector 2: Diu Head to Cape Rama, page 40
  30. ^ a b “INS Angre”. Global security.org. 2012年12月13日閲覧。
  31. ^ “India Postage Stamps,1947-2000”. 2020年7月17日閲覧。
  32. ^ “Angre port located in Ratnagiri inaugurated”. The Times of India. (2012年4月24日). http://economictimes.indiatimes.com/april-25-2012/angre-port-located-in-ratnagiri-inaugurated/articleshowpics/12867250.cms 2012年12月12日閲覧。 

関連書籍

  • Colonel John, Biddulph (1907). The Pirates of Malibar and an Englishwoman in India (Reprinted 2005 ed.). London: Smith, Elder & Co.. ISBN (9781846377280). https://books.google.com/books?id=EVA79yjVhVwC 
  • Rajaram Narayan, Saletore (1978). Indian Pirates: From the Earliest Times to the Present Day. Delhi: Concept Publishing Company. https://books.google.com/books?id=1PVMMoChwY4C 
  • Malgonkar, Manohar The Sea Hawk: Life and Battles of Kanhoji Angrey, Orient Paperbacks, c. 1984
  • Risso, Patricia. Cross-Cultural Perceptions of Piracy: Maritime Violence in the Western Indian Ocean and Persian Gulf Region during a Long Eighteenth Century, (Journal of World History)(英語版) - Volume 12, Number 2, Fall 2001, University of Hawai'i Press
  • Ketkar, Dr. D.R. Sarkhel Kanhoji Angre... Maratha Armar, Mrunmayi Rugvedi Prakashan, 1997.
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