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カイウラニ

カイウラニ(英語全名:Victoria Kawekiu Lunalilo Kalaninuiahilapalapa Kaʻiulani Cleghorn, 1875年10月16日 - 1899年5月6日)は、ハワイ王国の王女。

カイウラニ
Kaʻiulani
ハワイ皇太女
1897年、サンフランシスコにて。

全名 ヴィクトリア・カウェキウ・ルナリオ・カラニヌイアヒラパラパ・カイウラニ・クレゴーン
出生 1875年10月16日
ハワイ王国ホノルル
死去 (1899-05-06) 1899年5月6日(23歳没)
ハワイ州・ホノルル・アイナハウ
父親 アーチボルド・クレグホーン
母親 リケリケ
(テンプレートを表示)

人物

1875年にカラカウア王の妹である(リケリケ王女)(英語版)を母に、スコットランド人(アーチボルド・クレグホーン)(英語版)を父として生まれ、生後すぐにカラカウア家へ養女に出される[1]。早くから王家の次世代後継者と目されて、国民的人気も高かった。

1889年から、カラカウア王の指示でイギリスに留学[1]。留学中にカラカウアは死去し、伯母のリリウオカラニから王位継承権第1位を指名される[1]。1893年にクーデターが起こってハワイ王国が滅亡すると、英国留学中だったカイウラニは渡米してクーデターの不当性を訴え、グロバー・クリーブランド米大統領との面談に成功し、徹底調査する約束を取り付ける。

 
着物を着たカイウラニ。女王リリウオカラニの姪で王位継承者であったが、ハワイ併合の翌年に死去した

1897年11月、カイウラニは8年ぶりにハワイに帰国。1899年、炎症性リウマチにより23歳で死去[1]

その他

 
カイウラニの描いた油絵(1890年)

1881年に、ハワイ王国のカラカウア国王は、来日して赤坂離宮明治天皇と会談した際、幾つかの提案をした。その一つが姪のカイウラニ王女と山階宮定麿王との縁談である(当時山階宮定麿王は13歳、カイウラニは5歳)[1]。この縁談によってハワイ王室と日本の皇室との結びつきを強くして、ハワイ王国の存続を考えていたとされる[2]

しかし明治天皇は「国力増強に努めている明治新政府にはそこまでの余力はない」として断っている。

脚注

  1. ^ a b c d e 『ハワイスタイル NO.10』、171ページ、エイ出版社、2007年06月
  2. ^ 石出みどり、石出法太、『これならわかるハワイの歴史Q&A』、66ページ、大月書店、2005年09月

関連項目

外部リンク

  • 映画『プリンセス・カイウラニ』公式サイト
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