オックスフォード・ユナイテッド・フットボール・クラブ(Oxford United Football Club)はイングランド、オックスフォードシャー州、オックスフォードを本拠地とするサッカークラブチームである。2022-23シーズンはフットボールリーグ1(3部相当)に所属。
オックスフォード・ユナイテッドFC | |||
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原語表記 | Oxford United Football Club | ||
愛称 | The U's The Yellows | ||
クラブカラー | 青、黄 | ||
創設年 | 1893年 | ||
所属リーグ | フットボールリーグ | ||
所属ディビジョン | EFLリーグ1 | ||
ホームタウン | オックスフォード | ||
ホームスタジアム | Kassam Stadium | ||
収容人数 | 12,500 | ||
代表者 | (ニック・メリー) | ||
監督 | (カーリー・ロビンソン) | ||
公式サイト | 公式サイト | ||
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1893年にヘディングトン・ユナイテッドとして設立されたオックスフォード・ユナイテッドは、1960年に現在の名前を採用した。サザンフットボールリーグを制覇した後、1962年にフットボールリーグに加盟し1968年には2部リーグに昇格した。 1976年に降格した後、1984年から1986年にかけて1部リーグへの昇格を重ね、1986年にはリーグカップで優勝した。 しかし、UEFAがイングランドのクラブのヨーロッパ大会への出場を禁止していたため、1987年のUEFAカップに出場することができなかった。 1988年にトップリーグから降格したことで、18年間の低迷が始まり、2006年にはナショナルリーグに降格し、フットボールリーグから降格した初のメジャートロフィー獲得クラブとなった。 4シーズン後の2010年にプレーオフを経てリーグ2に復帰したオックスフォード・ユナイテッドは、2016年にリーグ2で2位になり、リーグ1への昇格を果たした。 ロン・アキントンはクラブ最多出場回数560回ジョン・シューカーはフットボールリーグ最多出場回数478回、ロンの弟グラハム・アキントンは最多ゴール107ゴールの記録を保持している。このクラブでプレーしている間、19人の選手が国際試合に出場している。 スウィングトン・タウンとレディングがライバルクラブである。
歴史
オックスフォード・ユナイテッドFCは1893年にヘディントンで結成され、1911年にサフィックス・ユナイテッドと合併しました。ヘディントンの聖アンドリュー教会のジョン・スコット=ターナー牧師と地元の医師ロバート・ヒッチングスによって、設立された。ヘディントン・ユナイテッドfcはヘディントン・クリケットクラブの選手たちが、冬季休暇中に体力を維持するためのサッカークラブでした。1913年にロンドン郊外のロードにあるウッテンズ・フィールドを購入したが、1920年の再開発によってクラブは移転を余儀なくされた。1925年にマナー・グラウンドを購入し、この施設は夏はクリケット施設として、冬にはサッカー施設として使用された。結成から6年後の1899年、ヘディントン・ユナイテッドは第一次世界大戦前までオックスフォードシャー地区2部リーグに所属しました。1921年には、オクソン・シニアリーグに加盟した。初年度は9-0の勝利を収めました。(8ゴールはP.ドリューイットによるもの)これは、オックスフォードユナイテッドの1試合に挙げた歴代最多得点です。1931年FAカップ予選に初出場しましたが8-2でハウンズ・fcに敗れた。この頃、クリッケットチームはホームを離れ、カウリーバラックスの近くにある施設に移った。アマチュアであったクラブが、プロサッカークラブへの転換が最初に検討されたのは1948‐49年シーズンのことでした。当時クラブの会長であったヴィック・クーリング氏はヘディントンfcがサザンリーグでプレイするために申請をした。1949年にプロリーグであるサザンリーグに加盟し、1950年にはイギリスサッカークラブ初となるナイター設備を導入した。当初はオレンジとブルーのシャツでプレイをしていたが、1957‐58年シーズンに現在の黄色のホームシャツに変更された。1960年ヘディントン・ユナイテッドはクラブの知名度を高めるためオックスフォード・ユナイテッドに改名した。 2年後の1962年、オックスフォードは2年連続でサザンリーグのタイトルを獲得し、4部チームのアクリントン・スタンレーが破産したことにより4部リーグに昇格した。その後2年連続で18位で終え、1965年には3部リーグに昇格した。また前年には、4部のクラブとしては初のFAカップの6回戦に進出した。
1982年、オックスフォードは3部リーグに所属していたが、バークレイズ銀行からの借金を返済できず閉鎖の危機に直面した。1983年4月、マクスウェルはオックスフォードと近隣のクラブであるレディングと合併して、テムズバレー・ロイヤルズという新クラブを設立し、ディスコットでプレーすることを提案した。両クラブのファンがこの決定に抗議をした結果、合併は中止された。さらにレティングの会長は退任し、合併に反対するものが後任に就任した。
オックスフォードは1985-86年1部リーグ最終節アーセナル戦を3-0で破りシーズン18位で終え降格を免れた。また、このシーズンは初めてフットボールリーグカップを制覇した。
財政問題
デニス・スミスは、トップリーグで経験を積んだ2人のストライカーを招聘した。サウサンプトンのポール・ムーディとノッティンガム・フォレストのナイジェル・ジェムソンである。1994-95シーズンは7位に終わり、翌シーズンは1月末までアウェイゲームに勝てなかったものの、ライバルのスウィンドン・タウンに準優勝し、昇格を果たした。1995年にマーチレーシングチームの共同オーナーであるロビン・ハードがクラブの経営に乗り出した。同年6月、理事会は荒廃したマナー・グラウンドに代わり、ミンチェリー・ファームに16,000人収容の新スタジアムの計画を発表した。クラブは1998-99シーズンの開始までにブラックバード・リーズ住宅地の近くの新スタジアムへの移転を希望したが、建設会社のテイラー・ウッドロウがすでに行われた作業の代金を受け取っていなかったため、前シーズン中に工事が中断された。
プレミアリーグから降格した後
1996-97シーズンは17位に終わり、スコットランド代表DFマット・エリオットをレスター・シティに売却した。1997年12月にスミスがウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンに移籍したものの、翌シーズンはスミスの後任で元キャプテンのマルコム・ショットンの下で12位となった。ショットンは以前、プレミアリーグに昇格したバーンズリーのアシスタントマネージャーだった。1998年10月、ユナイテッドの新スタジアム建設に伴う財政状況により、クラブの裏方スタッフが無給となり、経営危機のため、ファンのグループがFOUL (Fighting for Oxford United's Life) という圧力団体を立ち上げた。このグループは一連のミーティングやイベントを通じてクラブの苦境を宣伝し始め、ピッチ外周を覆うほど長いスカーフのコレクションである「結束のスカーフ」などが行われた。 ロビン・ヘルド会長はエンジニアリングプロジェクトに専念するために退任し、1999年4月にフィロズ・カッサムがヘルドの89.9%の支配権を1ポンドで購入し、クラブの推定1500万ポンドの負債も受け継いだ。カッサムは、会社任意整理によって、900万ポンドの負債をわずか90万ポンドに減らし、1000ポンド以上の負債を持つ無担保債権者には、1ポンドごとに10ペンスの返済が行われた。カッサムは未完成のスタジアムの完成に着手し、ボーリング場、シネコン、ホテルの建設計画を立て、一連の法廷闘争を経て、最終的にすべて決着した。
1999-2000年シーズンも不調が続き、降格圏に沈んだため、10月下旬にショットンが辞任した。ミッキー・ルイスを選手兼任監督として数ヶ月間指揮した後、元監督のデニス・スミスがクラブに戻り、降格を1つクリアして20位フィニッシュを達成した[ 。2000-01シーズンの終わりに、オックスフォードは35年ぶりに3部リーグに降格し、100失点を喫した。リーグ戦では33敗を喫し、1シーズンのリーグ戦でのクラブ史上2番目に多い敗北を喫した。
デビジョン3年間
オックスフォードは、新しい監督と新しいスタジアムで次のシーズンを始め、6年間の憶測の後、カッサム・スタジアムへの移転が完了しました。元リヴァプール、イングランド代表のディフェンダーであるマーク・ライトが監督の座についたが、レフェリーのジョー・ロスに人種差別的な発言をしたと非難され、11月末に辞任した。ライトの後任であるイアン・アトキンスはすぐにインパクトを与えることができず、オックスフォードは当時リーグ史上最低順位となる21位で終えた。 [翌シーズンは1勝1敗でプレーオフ進出を逃した。 2003-04シーズンは開幕から15勝を挙げ、1月末には首位に立ったが、イアン・アトキンスはライバルのブリストルローヴァーズの監督就任に合意したとされ、2004年3月に解雇された。
アトキンスの後任、グレアム・リックスはシーズン終了時に9位に留まり、翌11月に解任された。オックスフォードはアルゼンチン人のラモン・ディアスを後任に迎え、チームを中位に導いた。ディアスと彼のアシスタントチームは、交渉の失敗により会長からグラウンドへの立ち入りを禁止された後、2005年5月初めにクラブを去ったディアスはクラブにいた間、自分の息子やファン・パブロ・ラポニなど多くの南米の選手を引き入れた。 元イングランドのMFで元ウェストブロミッチアルビオン監督のブライアン・タルボットがリックスに代わって2年契約にサインした。タルボットはほとんど成功を収められず、2006年3月にクラブが22位にいる状態で解任された。後任はユースチームのコーチであるダレン・パターソンだった。
2006年3月21日、フィロズ・カッサムはクラブを負債も含めて、1970年代半ばにユナイテッドのユースチームでプレーしていたフロリダ在住のビジネスマン、ニック・メリーに約200万ポンドで売却した。メリーはすぐにクラブに変化をもたらし、元マネージャーのジム・スミスを2期目で採用するなど、クラブを改善した。就任初日に5人の選手と契約したものの、スミスは2005-06シーズン末の降格を防ぐことができなかった。44年間イングランドリーグに在籍したオックスフォードは23位に終わり、カンファレンス・ナショナルに降格し、主要トロフィーの獲得クラブとしては初のリーグ降格となった。偶然にも、1962年に倒産したクラブのおかげでユナイテッドがリーグに選出されたアクリントン・スタンレーは、彼らに代わって昇格した2クラブのうちの1つであった。
ノンリーグフットボール
翌シーズンもジム・スミスが監督を務め、開幕から25試合で14勝8分けと好調なスタートを切ったが、その後リーグ戦で11試合勝利がなく、2位に転落し、シーズン終了までその状態を維持した。2006年のボクシングデーには11,065人の観衆がカッサム・スタジアムでウォーキングと0-0で引き分け、カンファレンスでの試合(プレーオフを除く)では史上最大の観客動員数を記録した。
2007年11月9日、ジム・スミスは監督を辞任し、トップチームコーチのダレン・パターソンが監督として復帰した。ドロイズデンやトンブリッジ・エンジェルズに敗れ、最後の11試合で8勝という遅めの成績でカモフラージュされた低迷したシーズンで、2007-08シーズンのカンファレンスナショナル9位、最後のプレーオフ進出から10ポイント差で終了となった。
2008年10月2日、ニック・メリーは会長の座を退き、メリーの買収時に経営陣の一人だったケルビン・トーマスが後任に就任した。2ヶ月後、パターソンは不調で解任され、ハリファックス・タウンの元監督クリス・ワイルダーと交代した。ワイルダーの到着後、チームはそのシーズンの残り21試合のうち15試合に勝った。未登録選手の出場による5ポイントの減点の結果、プレーオフに4ポイントと2ポジション足りない7位でフィニッシュした。
2009-10シーズン、オックスフォードは前半戦の大半を首位で折り返しましたが、不調でプレーオフ圏内に落ち、3位で終了しました。2010年5月16日に行われたヨーク・シティとのプレーオフ決勝では、ラッシュデン&ダイヤモンドを2レグで下し、3-1で勝利し、2010-11シーズンのフットボールリーグへの復帰を果たした。観客数は42,669人で、決勝としては新記録であった。そのうち約33,000人がユナイテッドのファンであった。
フットボールリーグに戻ってから
オックスフォードのフットボールリーグ復帰初戦はアウェーのバートン戦で、0-0の引き分けに終わった。リーグ初勝利は9月4日のカッサム・スタジアムでのモーカムとの対戦で、ジェームズ・コンスタブルがハットトリックを決め、4-0の勝利。
2011-12シーズンはプレーオフ圏内で過ごし、1973-74シーズン以来初めてライバル(そして最終的なチャンピオン)であるスウィンドン・タウンとのダブル優勝を達成した。 しかし、最後の7試合では1勝もできず、プレーオフから2位と4ポイント差の9位でシーズンを終了した。
2012-13シーズンは怪我と不調に悩まされた。開幕から3勝を挙げ、一時は首位に立ったものの、その後6試合に敗れ、この不安定な状況はシーズンを通して続いた。3年連続でプレーオフ圏外に終わったが、2013年4月、監督のクリス・ワイルダーはさらに1年契約を延長されることになった。2012-13シーズン後半に解任を迫ったワイルダーの契約更新の決定に、一部のオックスフォードファンは不満を持っていた。
再び明るいスタートを切ったオックスフォードは、2013-14シーズンの前半に何度も首位に立った。2014年1月25日、プレーオフ圏内にいながらもクラブが低迷する中、ワイルダーは監督を辞任し、降格の危機にあるノーサンプトンの監督に就任した。その後、ミッキー・ルイスがクラブにとって2度目のケアテーカー・マネージャーとなった。2014年3月22日、ゲイリー・ワドックは長い面接の後、MKドンズのコーチングのヘッドとしての仕事を離れ、クラブのヘッドコーチに就任したルイスとワドックの下、オックスフォードはシーズン最後の数週間でプレーオフ圏外に滑り落ち、最後のプレーオフ圏から9ポイント離れた順位で8位に終わり、失望させた。
2014年7月、ワドックの契約は所有者の変更後に終了し、彼はマイケル・アップルトンと交代した。 ワドックの突然の解任により、彼はオックスフォードの監督の中で最悪の記録を持ち、クラブを率いた8試合でわずか1勝7敗だったことが確実となった。アップルトンの下で最初のシーズンは無関心だったが、就任2年目にリーグ1への昇格を達成し、勝ち点86で2位で2015-16シーズンを終えた。また、ウェンブリー・スタジアムで行われたリーグトロフィーの決勝に進出、国立競技場でのクラブ3度目の出場だったが、リーグ1の対戦相手バーンズリーに3-2で破れた。2016-17年、クローズシーズンにケマー・ルーフを史上最高額の300万ポンドで売却し、クラブでもっとも高額となる非公開の移籍金で、マーヴィン・ジョンソンを獲得したオックスフォードは、プレーオフ圏内に4ポイント足りないリーグ1位で、今度は降格圏のコベントリー・シティにウェンブリーでのリーグトロフィー決勝で再び敗退した。(Coventry City)。
2017年6月、アップルトンはプレミアリーグのレスター・シティーのアシスタントマネージャーになるためにクラブを去り、リーズ・ユナイテッドのアシスタントマネージャーだったペップ・クロテが後任となった。2018年1月22日、クロテは解任され、クラブはリーグ1下位クラブのベリーにホームで敗北して10位となった。ケアテーカー・マネージャーのデレク・ファザッカリーの下での長い期間、チームは降格圏の4ポイント以内にまで落ち込んだ後、MKドンズとチャールトン・アスレチックの元監督、カール・ロビンソンが2018年3月22日に指名された。ロビンソンは初勝利まで5試合待たなければならなかったが、シーズン最後の5試合で3勝を挙げ、クラブのリーグ1残留の目標を達成した。クラブは勝ち点56の16位で、降格圏に6ポイント差をつけてのフィニッシュとなった。
翌年は、シーズンの半分以上を降格圏で過ごしたものの、12位でフィニッシュした。COVID-19パンデミックの影響を受けた短縮シーズンの2019/20シーズンは、4位フィニッシュと改善された。シーズンが中断されたとき、オックスフォードは順位表の3位でしたが、シーズンを早く終了するためのクラブからの合意を受けて、U'sは1試合あたりの加重ポイントのないシステムで最終順位が決定された後、4位に1つ下がった。プレーオフは通常通りに続き、準決勝でポーツマスと対戦しました。ウェンブリーで行われた決勝戦では、オックスフォードはウィコム・ワンダラーズに2-1で敗れ、ジョー・ジェイコブソンのペナルティが決定的となった。
オックスフォードは翌シーズンもプレーオフに出場し、ブラックプールに6-3で敗れ、決勝ではブラックプールが優勝した。2021/22シーズン、ユナイテッドはリーグ得点王となり、8位でフィニッシュした。
名称変更
- 1893-1960 ヘディントン・ユナイテッドFC
- 1960-現在 オックスフォード・ユナイテッドFC
スタジアム
オックスフォード・ユナイテッドは1913年まで定宿がなく、ヘディントンのクオリーレクリエーショングラウンド、ウートンズフィールド(現ステファンロード)、サンディレーン(現オスラーロード)、ブリタニアフィールド(現ライムウォークの上端)を転々としていた。1913年にロンドンロードのウートンズフィールドを購入できたものの、スタジアム建設前に1920年に再開発された。サンディレーンの敷地を購入したクラブは、1925年から2001年にかけてマナーグラウンドを開発し、そこでプレーした。1964年2月29日に行われたFAカップ6回戦のプレストン・ノースエンド戦では、22,750人というユナイテッドの記録的な観客を収容した。北、東、南、西のスタンドはそれぞれ、カッコーレーン、オスラーロード、ロンドンロード、ブナロードと呼ばれていました。
1990年代には、サッカースタジアムの改善を求める「テイラー・レポート」が発表されました。マナー・グラウンドのテラスは余剰になりつつあり、グラウンドの再開発は費用がかかりすぎるため、クラブは市郊外に1500万ポンド程度の費用をかけた全席専用のスタジアムに移転することを決めた。1997年の初期に建設作業が始まったが、同年末にクラブの財政問題により中断した。1999年に買収取引により新スタジアムの建設が再開、マナーでの最後のリーグ戦は2001年5月1日にポートヴェールと1-1で引き分けとなる。敷地は1200万ポンドで売却され、スタジアムはその後取り壊された。現在、その土地は私立病院が占有している。
2001年以降、オックスフォード・ユナイテッドはカッサム・スタジアムでプレーしている。このオールシーター・スタジアムの収容人数は12,500人で、通常の4つのスタンドではなく、3つしかない。1995年に最初に計画されたときは、もともと16000席の収容能力を持つ予定だったが、スタジアム開設時には、オックスフォードは下部リーグでプレーしていたので、小さい収容能力が適切とみなされた。第4スタンドの建設は数年後になる見込みだが、すでに基礎工事は行われている[104]。過去最高の観客動員数は、2005-06シーズンの最終戦、レイトン・オリエント戦の敗北でフットボールリーグからの降格が決まったときに達成された12,243人である。前シーズンの平均観客動員数は7,415人で、リーグ2で2番目、フットボールリーグ全体では34番目だった。平均観客動員数は、チームがカンファレンスに在籍した4年間のうち2年間で最も多く、残りの2年間の平均は、それぞれエクセターシティとケンブリッジユナイテッドの次に2位だった。カッサムスタジアムでは、ラグビーユニオンの試合、女子サッカー国際試合(イングランド vs スウェーデン)、アンダー17国際サッカートーナメント、音楽コンサートも開催されている。
クラブはオックスフォードシャー郡議会に働きかけ、キドリントン近郊のストラットフィールド・ブレイクのグリーンベルトの土地に、18,000人収容の新しいサッカースタジアムと、ホテル、小売、会議、トレーニング/コミュニティグラウンドなどの付帯レジャー・商業施設の開発のために、約18ヘクタール(44.48エーカー)の土地を譲渡することを要請した。
2022年1月18日、OCCは地元コミュニティからのフィードバックを集めるために、まずエンゲージメントエクササイズを実施することを推奨した。この調査はOxvoxによって大きく宣伝され、回答者はオークニー諸島など遠方からもアンケートに答えた。地元住民では38パーセントが賛成、58パーセントが反対だったにもかかわらず、2022年3月15日に開かれた会議でOCCはクラブとの公式交渉を進めることを推奨、この決定は多くの批判を受けていた。Stratfield Brakeの土地は、Kidlington Parish Council(KPC)にサブリースされており、破約権はない。そのため、クラブの提案を進めるには、KPCの同意が必要となった。
紋章とクラブカラー
クラブの紋章は、場所を象徴する浅瀬の上に牛が描かれている。これは、オックスフォードがもともとイシス川の浅瀬の近くに位置する市場都市であり、牛が利用していたことから、街の名前と歴史を反映したものである。2008年、西スタンドだった場所の外に牛のブロンズ像が除幕された。その後、2011年1月にピンクのペンキで覆われて破壊され、クラブはこの機会を利用して乳がんチャリティーのための募金活動を行った。 クレストの形とデザインは、最初に作られて以来何度も変わっている。ヘディングトンとしてプレーしていた時やオックスフォード・ユナイテッドの初期には、クレストには浅瀬を渡るフルオックスと、イニシャルのH.U.F.C.(1962年以前)またはオックスフォード・ユナイテッドの名前(名前変更後)が含まれていた。1972年から1980年にかけて、紋章は円形になり、黄色と黒の背景に牛の頭だけが描かれるようになった。牛の周りには「Oxford United Football Club」の文字が入るようになった。その後17年間は、クレストは単に牛の頭を青く染め、その周囲に様々な文言を組み合わせたものであった。例えば、1987-88シーズンには、25th Anniversaryという文言がクレストの下に配置されていた。1996年には、クレストは盾の形になり、黄色の背景に浅瀬の上に牛の頭が描かれたものに変更された。この紋章は2001年にカッサム・スタジアムに移転するまで維持され、クラブスチュワードのロブ・アルダーマンが現在の紋章をデザインした。以前の紋章と同様のデザインであるが、牛と浅瀬が黄色の背景の円の中に入っており、残りの部分は青色である。
ヘディングトン・ユナイテッドとしてプレーしていた時は、オレンジと青のストライプのシャツにネイビーのショートパンツとソックスを着用していた。シャツのデザインは定期的に変更され、ストライプは数シーズンごとに変更されました。サザンリーグに加盟した後、青いストライプは永久に失われ、より明るい色合いのオレンジがシャツに使用された。黄色のキットは1957-58シーズンに初めて着用され、黒いショートパンツと黄色のソックスが付属していた。1970年代後半から1980年代前半にかけて、黒のショーツはまず黄色のショーツに、そしてロイヤルブルーのショーツに変更された。1990年代初頭からは、黄色のシャツにネイビー色のショーツとソックスで構成されている。シャツに赤と黒のストライプが入ったものから、真っ白なものまで、長年にわたって様々なアウェイキットが使用されてきた。シャツに初めて登場したスポンサーは、1982年に地元紙であるSunday Journalだった。1983年から1985年にかけては、3つのスポンサーが存在した。BPCC、ペルガモン、サンデーピープルの3社である。それらに続いて、Wang Laboratories(1985年から1989年)、Pergamon(1989年から1991年)、Unipart(1991年から2000年)、Domino(2000年から2001年)、Buildbase(2001年のカッサム・スタジアムへの移転から2010年)。
フットボールリーグへの復帰後、ブライドル保険が新しいシャツスポンサーとなったブライドルとの契約は2012-13シーズンの終了後に終了した。2013-14シーズンのホームスポンサーはAnimalatesと発表され、アウェイキットは革新的な懸賞に当選したIsinglass Consultingが同シーズンのスポンサーとなった。そのイジングラスとの1年契約は2014-15シーズンまで延長され、再びアウェイキットにのみ採用された同シーズンのホームキットは、タイヤ会社のブラックnラウンドがスポンサーとなった。2015年7月、オックスフォードユナイテッドは投資管理会社のライオントラスト・アセット・マネジメントとホームとアウェイシャツの両方をカバーする3シーズン契約を発表した。2018-19と2019-20シーズンは、主要なシャツスポンサーはタイのビール会社Singhaだった。2020年8月、タイ政府観光庁は、原則的パートナーシップ契約の一環として、「Amazing Thailand」というブランド名を使用して、新しいシャツスポンサーとして発表した。
経営者の歴史
最初の監督は、クラブがプロ化した直後の1949年7月に就任したハリー・トンプソンだった。9年間の任期中、彼はチームを1953年に南部リーグのタイトルに導き、1953年と1954年には南部リーグカップも獲得した。1958年にアーサー・ターナーに交代し、彼はクラブ史上最長の監督となり、10年以上指揮を執った。ターナーはユナイテッドをサザンリーグ連覇に導き、1962年の2度目の優勝でフットボールリーグに選出された。1965年に4部から昇格し、3年後には3部のチャンピオンに輝いた。ターナーはこの成功から9ヵ月後にクラブを去った。その後13年間で、5人の監督が指揮を執った。ロン・サンダースは、1968-69年シーズン終了後にノリッジ・シティに移籍し、わずか十数試合しか指揮を執らなかった。ジェリー・サマーズは6年間監督を務め、その後、ミック・ブラウンに交代した。ブラウンの4年間の在任中、ユナイテッドは8年間2部リーグで過ごした後、再び3部リーグに降格した。
ジム・スミスは1981年に最初の監督を務め、1984年と1985年に連続してチャンピオンとして昇格し、オックスフォードをイングランドサッカー界のトップクラスに導いた。しかし、1985-86シーズン前にクイーンズ・パーク・レンジャーズに移籍した。新監督の元チーフスカウト、モーリス・エヴァンスは、1986年のリーグカップで前任者の新クラブを決勝で破り、すぐに成功を収めた。その後24年間、クラブを昇進させた唯一の監督は、1996年に2部から昇進したデニス・スミスだった。2004年12月から2005年5月までの5ヶ月間、クラブ初の非英国人監督であるラモンディアスが指揮を執った。ジム・スミスは、オックスフォード・ユナイテッドが44年間在籍したフットボールリーグからフットボールカンファレンスに降格した2006年に監督として復帰しました。2006-07シーズンに昇格を逃したため、スミスは辞任し、2007年11月9日にダレン・パターソンが監督に昇格した。
パターソンは2008年12月に解任され、後任にはクリス・ワイルダーが就任し、2010年のカンファレンスプレーオフファイナルを制してクラブをフットボールリーグに復帰させ、2014年1月に辞任するまで5年間クラブに在籍していた。2014年3月にゲイリー・ワドックがヘッドコーチに就任したが、7月にクラブの持ち株比率の変更に伴い解任され、マイケル・アップルトンが後任となった。アップルトンは3シーズンの指揮でリーグ1への昇格とEFLトロフィーでの2度の決勝敗退を監督し、その後レスター・シティのアシスタントマネージャーとなるために退職した。後任にはスペイン人のペップ・クロテが就任したが、就任1年目の途中で解任され、ケアテイカー・マネージャーのデレク・ファザッカリーの下で2ヶ月間働いた後、元チャールトン監督のカール・ロビンソンが就任した。
プロになってから、クラブは25人の常勤監督を迎え、そのうち3人(ジム・スミス、デニス・スミス、ダレン・パターソン)は複数回の就任を経験し、11回のケアテーカー・マネジメントを経験した。
タイトル
国内タイトル
- サウザンリーグ:3回
- 1952-1953, 1960-1961, 1961-1962
- サウザンリーグカップ:2回
- 1952-1953, 1953-1954
- フットボールリーグ・ディヴィジョン2:1回
- 1984-1985
- フットボールリーグ・ディヴィジョン3:2回
- 1967-1968, 1983-1984
- フットボールリーグカップ:1回
- 1986
国際タイトル
- なし
過去の成績
シーズン | ディビジョン | FAカップ | リーグカップ | 欧州カップ / その他 | 最多得点者 | ||||||||||
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リーグ | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 点 | 順位 | 選手 | 得点数 | |||||
2008-09 | ナショナルリーグ | 46 | 24 | 10 | 12 | 71 | 51 | 77 | 7位 | 2回戦敗退 | フットボールリーグトロフィー | 2回戦敗退 | |||
2009-10 | ナショナルリーグ | 44 | 25 | 11 | 8 | 64 | 31 | 86 | 3位 | 2回戦敗退 | フットボールリーグトロフィー | 4回戦敗退 | |||
2010-11 | フットボールリーグ2 | 46 | 17 | 12 | 17 | 58 | 60 | 63 | 12位 | 1回戦敗退 | 2回戦敗退 | フットボールリーグトロフィー | 1回戦敗退 | ||
2011-12 | フットボールリーグ2 | 46 | 17 | 17 | 12 | 59 | 48 | 68 | 9位 | 1回戦敗退 | 1回戦敗退 | フットボールリーグトロフィー | 準決勝敗退 | ||
2012-13 | フットボールリーグ2 | 46 | 19 | 8 | 19 | 60 | 61 | 65 | 9位 | 3回戦敗退 | 2回戦敗退 | フットボールリーグトロフィー | 準々決勝敗退 | ||
2013-14 | フットボールリーグ2 | 46 | 16 | 14 | 16 | 53 | 50 | 62 | 8位 | 3回戦敗退 | 2回戦敗退 | フットボールリーグトロフィー | 2回戦敗退 | ||
2014-15 | フットボールリーグ2 | 46 | 15 | 16 | 15 | 49 | 48 | 61 | 13位 | 2回戦敗退 | 2回戦敗退 | フットボールリーグトロフィー | 1回戦敗退 | ||
2015-16 | フットボールリーグ2 | 46 | 24 | 14 | 8 | 84 | 41 | 86 | 2位 | 4回戦敗退 | 2回戦敗退 | フットボールリーグトロフィー | 準優勝 | ||
2016-17 | EFLリーグ1 | 46 | 20 | 9 | 17 | 65 | 52 | 69 | 8位 | 5回戦敗退 | 2回戦敗退 | EFLトロフィー | 準優勝 | ||
2017-18 | EFLリーグ1 | 46 | 15 | 11 | 20 | 61 | 66 | 56 | 16位 | 1回戦敗退 | 1回戦敗退 | EFLトロフィー | 4回戦敗退 | ジェームズ・ヘンリー (ウェス・トーマス) | 11 |
2018-19 | EFLリーグ1 | 46 | 15 | 15 | 16 | 58 | 64 | 60 | 12位 | 3回戦敗退 | 3回戦敗退 | EFLトロフィー | 4回戦敗退 | ジェームズ・ヘンリー | 15 |
2019-20 | EFLリーグ1 | 35 | 17 | 9 | 9 | 61 | 37 | 60 | 4位 | 4回戦敗退 | 準々決勝敗退 | EFLトロフィー プレーオフ2020 | 2回戦敗退 準優勝 | マティ・テイラー | 17 |
2020-21 | EFLリーグ1 | 46 | 22 | 8 | 16 | 77 | 56 | 74 | 6位 | 1回戦敗退 | 2回戦敗退 | EFLトロフィー プレーオフ2021 | 準決勝敗退 準決勝敗退 | マティ・テイラー | 13 |
2021-22 | EFLリーグ1 | 46 | 22 | 10 | 14 | 82 | 59 | 76 | 8位 | 1回戦敗退 | 2回戦敗退 | EFLトロフィー | GS敗退 | マティ・テイラー | 22 |
2022-23 | EFLリーグ1 | 46 | 位 | EFLトロフィー |
歴代監督
名前 | 国 | 就任 | 退任 | 試合 | 勝ち | 分け | 負け | 勝率 % |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
(ジム・スミス) | 1982年3月1日 | 1985年6月11日 | 167 | 89 | 42 | 36 | 53.3 | |
(モーリス・エヴァンス) | 1985年6月11日 | 1988年3月26日 | 140 | 41 | 41 | 58 | 29.3 | |
マーク・ローレンソン | 1988年3月26日 | 1988年10月25日 | 23 | 4 | 8 | 11 | 17.4 | |
(ブライアン・ホートン) | 1988年10月25日 | 1993年8月27日 | 251 | 79 | 65 | 107 | 31.5 | |
(モーリス・エヴァンス) (暫定) | 1993年8月27日 | 1993年9月10日 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0.0 | |
(デニス・スミス) | 1993年9月10日 | 1997年12月24日 | 247 | 99 | 60 | 88 | 40.1 | |
(マルコム・クロスビー) (暫定) | 1997年12月24日 | 1998年1月24日 | 5 | 0 | 1 | 4 | 0.0 | |
(マルコム・ショットン) | 1998年1月24日 | 1999年10月25日 | 88 | 26 | 22 | 40 | 29.5 | |
(ミッキー・ルイス) (暫定) | 1999年10月25日 | 2000年2月2日 | 22 | 6 | 8 | 8 | 27.3 | |
(デニス・スミス) | 2000年2月3日 | 2000年10月2日 | 30 | 8 | 3 | 19 | 26.7 | |
(マイク・フォード) (暫定) | 2000年10月3日 | 2000年10月31日 | 6 | 0 | 1 | 5 | 0.0 | |
(デイヴィッド・ケンプ) | 2000年10月31日 | 2001年4月30日 | 31 | 7 | 3 | 21 | 22.6 | |
(マイク・フォード) (暫定) | 2001年5月1日 | 2001年5月8日 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0.0 | |
マーク・ライト | 2001年5月8日 | 2001年11月22日 | 22 | 4 | 7 | 11 | 18.2 | |
(イアン・アトキンス) | 2001年11月23日 | 2004年3月21日 | 122 | 47 | 35 | 40 | 38.5 | |
(グラハム・リックス) | 2004年3月22日 | 2004年11月14日 | 29 | 6 | 8 | 15 | 20.7 | |
(ダレン・パターソン) (暫定) | 2004年11月14日 | 2004年12月9日 | 3 | 1 | 0 | 2 | 33.3 | |
ラモン・ディアス | 2004年12月9日 | 2005年5月4日 | 25 | 10 | 7 | 8 | 40.0 | |
(ブライアン・タルボット) | 2005年5月6日 | 2006年3月14日 | 44 | 10 | 16 | 18 | 22.7 | |
(ダレン・パターソン) | 2006年3月14日 | 2006年3月22日 | 3 | 1 | 2 | 0 | 33.3 | |
(ジム・スミス) | 2006年3月22日 | 2007年11月9日 | 82 | 34 | 26 | 22 | 41.5 | |
(ダレン・パターソン) | 2007年11月9日 | 2008年11月30日 | 59 | 24 | 11 | 24 | 40.7 | |
(ジム・スミス) (暫定) | 2008年11月30日 | 2008年12月21日 | 4 | 2 | 2 | 0 | 50.0 | |
クリス・ワイルダー | 2008年12月21日 | 2014年1月26日 | 269 | 121 | 70 | 78 | 45.0 | |
(ミッキー・ルイス) (暫定) | 2014年1月26日 | 2014年3月22日 | 12 | 3 | 5 | 4 | 25.0 | |
(ガリー・ワードック) | 2014年3月22日 | 2014年7月4日 | 8 | 1 | 0 | 7 | 12.5 | |
(マイケル・アップルトン) | 2014年7月4日 | 2017年6月20日 | 173 | 78 | 46 | 49 | 45.1 | |
(ペップ・クロテット) | 2017年7月1日 | 2018年1月22日 | 36 | 12 | 10 | 14 | 33.3 | |
(デレク・ファザッカーニー) | 2018年1月22日 | 2018年3月22日 | 8 | 2 | 1 | 5 | 25.0 | |
(カリー・ロビンソン) | 2018年3月22日 | 195 | 80 | 52 | 63 | 41.0 |
歴代所属選手
- ロン・アトキンソン(1959-1971)
- ナイジェル・ウィンターバーン(1982-1983)
- ジョン・オルドリッジ(1984-1987)
- スティーブ・マクラーレン(1989-1992)
- イアン・ウォーカー(1990)
- アシュリー・バーンズ(2007)
- マイケル・デュベリー(2011-2013)
外部リンク
- 公式サイト(英語)
- Oxford United - Football Conference(英語)
- Oxford United - BBC Sport(英語)
- Oxford United - Historical Football Kit(英語)