背景
1970年代初頭、皇帝ハイレ・セラシエ1世が統治していたエチオピアは深刻な政治的・社会的・経済的危機に直面し、世界の最貧国の一つになっていた。農村地域に住んでいた人口のほとんどは、1960年代末期からの定期的な旱魃に苦しみ[1]、絶え間ない飢饉に直面しており、貧農は皇帝・貴族・正教会の所有する土地で暮らすことを強いられていた[1]。この状況は、エリトリア地方の反政府勢力[1]に対する軍事的敗北、(ウォロ地方)と(ティグレ地方)での深刻な飢饉により更に強まった。これら全てが、帝国政府への大きな不満を生み出した。
ハイレ・セラシエ1世が飢饉の程度を知らなかったと示唆する情報源があるが、別の人間は皇帝はそれをよく知っていたと主張している。さらに腐敗した官僚によって飢饉を隠蔽するための工作が繰り返された。合法的な政党が存在しなかった[1]エチオピアにおいて、諸政策の実行には皇帝の承認が必要であり、このことは行政の非効率化をもたらした。
帝国への不満は、(エチオピア人民革命党)(PRPE)と、農民反乱と学生の抗議に加えて、帝国体制に対する様々な抗議行動を主導したパネティオペ社会主義運動(MEISON)によって更に膨れ上がった。帝国の危機は第一次オイルショックによって引き起こされた原油高でさらに悪化し、深刻なハイパーインフレをもたらした[1]。
勃発
状況が悪化するにつれて、デモや暴動の鎮圧を担当していた軍の中でも不満は広がり、賃金の上昇を要求した。その中で反皇帝勢力が軍でも増え始めていた。
1974年2月、経済状況に抗議したことを契機として暴動が発生し、首都アディスアベバで5人が死亡した。この暴動とハイパーインフレの影響に鑑みたハイレ・セラシエ1世は、基本的な製品の価格を固定するなど、大きな譲歩を強いられることとなった。
しかし、それでも不満は収まらなかった。9月12日、左派の(陸軍)下級将校によって結成された政治委員会である(デルグ)は、皇帝と帝国政府を打倒し、支配的な軍事政権に移行した。翌1975年3月21日、マルクス・レーニン主義を公式イデオロギーとして採用したデルグは帝制を廃止し、エチオピアにおける社会主義国家を建設する過程としての臨時軍事行政評議会を樹立した。クーデター勃発時に国外にいた皇太子アスファ・ウォッセンはそのままロンドンに亡命したが、ハイレ・セラシエ1世をはじめとして、(イジガエフ)皇女や(テナグネウォルク)皇女といった革命勃発時にエチオピアに居住していた(ソロモン家)の皇族の多くが拘留・投獄された。8月27日、アディスアベバの(ジュビリー宮殿)に拘禁されていたハイレ・セラシエ1世は謎の多い状況下で死去した[2][3]。その年、ほとんどの産業と民間の都市不動産がデルグによって国有化された。