ウクライナ・ロシア戦争 (ウクライナ語:Українсько-російська війна)は、1658年から1659年にかけて続いたウクライナのコサック国家とロシア・ツァーリ国との間の戦争である。戦争の原因はロシアによる(ウクライナ内戦)への介入であった。1658年6月にコサック国家の元首イヴァン・ヴィホーウシキー将軍が野党による反乱を鎮圧したが、8月にロシアはヴィホーウシキー政権を成敗するために軍勢を派遣し、野党の再編成を行った。将軍はロシアが(ウクライナ・ロシア条約)に違反したとして、ロシアの保護からポーランドの保護に切り替え、9月にポーランド側と(ハージャチ条約)を結んだ。さらに、クリミア・ハン国と同盟を復活させた。ウクライナ・コサック軍とロシア軍との間の衝突は左岸ウクライナと南ベラルーシで起こった。1659年にかけてロシア軍はウクライナ・ロシアの国境地域にいくつかのコサック都市を陥落させ、同年4月に(コノトプ)という要塞を包囲した。しかし、1659年6月にコノトプの周辺にウクライナ・クリミアの連合軍はロシアの軍勢を打ち破った。この戦いで大きな損害を受けたロシアはウクライナから撤退し、軍事行動を止めたが、ウクライナ国内の野党を支援し続けた。1659年9月に野党がヴィホーウシキー将軍は、拡大する内乱を鎮めるために、亡きフメリニーツィキーに将軍の息子(ユーリー・フメリニーツィキー)に将軍の位と国家の標識を譲った。1659年10月、ペレヤースラウにおいて、若いフメリニーツィキーはロシアと(新たな保護条約)を結び、ポーランドとのハージャチ条約を廃棄した。
ウクライナ・ロシア戦争 | |
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戦争:ウクライナ・ロシア戦争、ポーランド・ロシア戦争 | |
年月日:1658年-1659年 | |
場所:左岸ウクライナ | |
結果:ロシア側の勝利 | |
交戦勢力 | |
コサック国家 | ロシア・ツァーリ国 |
指導者・指揮官 | |
I・ヴィホーウシクィイ (メフメド4世ギレイ) | (A・トルベツコイ) (S・ポジャールスキイ) |
参考文献
- Литвин В. Українсько-російська війна 1658-1659. Конотопська битва // Історія України (ウクライナの歴史): в 3-т. – Київ: Альтернативи, 2003-2005. – С.539.
- Смолій А. Історія українського козацтва (ウクライナ・コサックの歴史): в 2 т. – Київ: Києво-Могилянська академія, 2006. – С.376.
- Смолій А. Степанков В. Українська національна революція 17 ст. (17世紀のウクライナの民族革命) – Київ: Києво-Могилянська академія, 2009.