イサドラ・ダンカン(Isadora Duncan, 1877年5月26日- 1927年9月14日)は、20世紀を代表するアメリカのダンサー。モダンダンスの祖でもあった。
生涯
両親について
母メアリー·イサドラ・グレイ(ドラ)、父ジョゼフ・チャールズ・ダンカンの元に生まれる[1]。 母親のドラはトーマス・グレイの娘[2]。トーマス・グレイは、アイルランド出身でイリノイに移住し、ブラック・ホーク戦争に大尉として従軍した[1]。セントルイスでメアリー・ゴーマンと出会い、戦争後に結婚、サンフランシスコに定住した[3]。
ジョゼフ・チャールズ・ダンカンは、米国聖公会に属しており、ドラより30歳年上で、成人した四人の子供がおり、離婚歴があった[3]。しかし、50歳のダンカンが20歳のドラに求婚した時には、名声ある資産家で、芸術愛好家で、町の顔役でもあった[4]。
イザドラの生涯
サンフランシスコで生まれる[5]。イサドラの両親はアイルランド人で、音楽教師であった母親から音楽の基礎教育を受けた。早くから古典舞踊を学んだが、その慣習的な動きに満足できず自分自身の創作する自由な舞踊を考えた。アメリカでダンスの仕事を少しした後、1899年に一家でヨーロッパに渡った。1900年にパリでデビューする[6]。(フランソワ・デルサルト)に強く影響を受け、また古代ギリシャの壷やパルテノンの壁画などから感化を受けており、当時の(ギリシャ・リバイバル)の波に乗り新しいダンスを生み出した。衣装もギリシャ風のチュニックを用い、靴を用いず裸足で踊った[5]。
ドイツのベルリンとフランスのパリ、そしてロシア革命後のモスクワにダンス学校を創立、20世紀のダンス、舞踊だけでなく身体表現の形そのものを変革したといわれ[5]、「裸足のイサドラ」のあだ名で呼ばれた。演出家ゴードン・クレイグとは恋愛関係にあった。
しかし、1927年9月14日にフランスのニース近郊で首にまいたスカーフが自動車の車輪に巻き込まれ、イサドラは転倒して惨死した。享年50歳[5]。イサドラの遺体は荼毘に付され、遺灰がパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。
イサドラの舞踊は即興的な面が多く一定の理論を持たなかったため、その死と共に途絶えたが近代舞踊に多大な影響を与えた事は高く評価されている[7]。また、イサドラは大のカメラ嫌いとしても知られ、イサドラの舞踊を記録した動画映像は屋外で隠し撮りされたものが一つ存在するのみである。この映像は1995年3月25日に「映像の世紀第1集 20世紀の幕開け カメラは歴史の断片をとらえ始めた」で放送された。
1968年にはヴァネッサ・レッドグレイヴ主演でイサドラの伝記映画『(裸足のイサドラ)』が制作された[7]。
逸話
脚注
参考文献
- デブラ・クレイン、ジュディス・マックレル 『オックスフォード バレエダンス事典』 鈴木晶監訳、赤尾雄人・海野敏・長野由紀訳、平凡社、2010年。ISBN (978-4-582-12522-1)
- ダンスマガジン編 『ダンス・ハンドブック』 新書館、1991年。ISBN (4-403-23017-2)
- 岸田真著『《アレーナ・ゴルドーニ》――ゴードン・クレイグ演劇学校の構想――』(『演劇学論集 日本演劇学会紀要』日本演劇学会、1992年、p.47-61)
- 森田玲子『創作舞踊における身体の動きに関する研究』森田玲子、2015年 。
- フレドリカ・ブレア 著、鈴木万理子 訳『踊るヴィーナス-イサドラ・ダンカンの生涯』PARCO出版、1990年。
関連項目
- イサドラ - モーリス・ベジャール振付、マイヤ・プリセツカヤ主演で1976年に初演されたバレエ作品。
- ロイ・フラー - サーペンタインダンスの開発者で、イザドラを支援していた。
外部リンク
- イザドラ・ダンカン・ヘリテッジ・ソサエティ・ジャパン
- Isadora Duncan's Web Links
- イザドラ・ダンカン - Find a Grave(英語)