アーザム・シャー(ウルドゥー語: اعظم شاہ, Azam Shah, 1653年7月8日 - 1707年6月8日)は、北インド、ムガル帝国の対立君主(在位:1707年)。第7代皇帝バハードゥル・シャー1世と対立した。第6代君主アウラングゼーブの三男で、母はディルラース・バーヌー・ベーグム。皇子時代はアーザムと呼ばれた。
生涯
幼少期・青年期
1653年7月8日、アーザムはムガル帝国の皇帝アウラングゼーブとその妃ディルラース・バーヌー・ベーグムとの間に生まれた[1]。
アーザムの母ディルラース・バーヌー・ベーグムはサファヴィー朝の流れをくむ貴族(シャー・ナワーズ・ハーン)の娘であった。したがって、アーザムは父方ではティムールの血を、母方からサファヴィー朝の血を受け継いだ皇子であった[1]。
アーザムには2人の兄がいたが、彼は父アウラングゼーブからは最初から後継者であるかのように育てられた[1]。2人の兄の母はヒンドゥー教徒の領主(ラージャ)の娘であったからである[2]。
アーザムは父の期待にこたえるかのように、優れた知性と卓越性を持った若者となり、父もまたその高潔な人格に感銘を受けたという。
アウラングゼーブの後継者として
1669年1月3日、アーザムは父の兄ダーラー・シコーの娘(ジャハーンゼーブ・バーヌー・ベーグム)と結婚した[1]。これはアウラングゼーブの後継者としての地位を確立させるものであった。 また、アーザムは各地の太守にも任命され、ベラール、マールワー、ベンガルの地を任された[1]。
1679年10月6日、アーザムは父アウラングゼーブに呼び戻され、ベンガルの首府であるダッカを去り、ベンガル太守位は(イブラーヒーム・ハーン2世)に引き継がれた[1]。
1681年8月2日、アウラングゼーブはアーザムは正式に自身の後継者として指名され、皇太子として他の兄弟より上の立場となった[1]。同年、アーザムはビジャープル王国の君主(アリー・アーディル・シャー2世)の娘と結婚した[1]。
1685年10月、アウラングゼーブはビジャープル王国を滅ぼすため、アーザムを(シカンダル・アーディル・シャー)のいるビジャープルへと向かわせ、1686年9月にアーザムはビジャープルを落とした((ビジャープル包囲戦))。
1701年から1706年まで、アーザムはグジャラート太守にも任命され、グジャラートの首府であるアフマダーバードに滞在していた[1]。
同年にアーザムはグジャラート太守の任を解かれたのち、アウラングゼーブがいるアフマドナガルへと移動していた。このとき、アウラングゼーブは老体となり、すっかり弱っていた[1]。
1707年2月、アーザムはアウラングゼーブの命により、マールワーへと移動させられた。一方、弟のカーム・バフシュもまた、ハイダラーバードへと移動させられていた[3]。アウラングゼーブは自分の死後に「鎖を解かれた2頭のライオン」を一緒にしておくような危険な行為はできなかった[3]。
皇位継承戦争と死
1707年3月3日、老帝アウラングゼーブは死亡した。死の数日前、アーザムには自身の悲痛な気持ちをしたためた手紙を送っている[3]。マールワーに行く素振り見せながらもアフマドナガルの外にいたアーザムは、翌日にフルダーバードに埋葬されるアウラングゼーブに哀悼の意を伝えた。
そして、同月14日、アーザムはアウラングゼーブの正統な後継者として、自ら帝位を宣言し、「アーザム・シャー」を号するところとなった[1]。一方、兄のムアッザムと弟のカーム・バフシュもまたそれぞれ帝位を宣し、他の兄弟との対決を鮮明にしていた。
同年6月19日、アーザム・シャーはアーグラ近郊(ジャージャウー)において、バハードゥル・シャーの名を号する兄ムアッザムとの対決に及んだ((ジャージャウーの戦い))[1][4]。戦闘は一日で決着し、アーザム・シャーは息子の(ビーダール・バフト)、(ワラー・ジャー)とともに戦闘で敗れて殺害された[1][4]。
脚注
参考文献
- (フランシス・ロビンソン) 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206 - 1925)』創元社、2009年。
関連項目
- ムガル帝国
- (ジャージャウーの戦い)