アンナ・ポロヴェツカヤ(ポロヴェツのアンナ)(ロシア語: Анна Половецкая、? - 1111年10月7日)は、キエフ大公フセヴォロドの二人目の妻である。
生涯
アンナはポロヴェツ族族長の娘という説が一般的であるが[1]、史料上にそれを裏付ける記述はない。また、アンナは『イパーチー年代記・フレーブニコフ写本(ru)』に記された名前であり[1]、両親や出生名(アンナは聖名)は不明である。、
1067年にキエフ大公フセヴォロドの最初の妻(ru)(コンスタンティノス9世モノマコスの娘か)が死去し、おそらくその翌年にフセヴォロドと結婚した。1093年にフセヴォロドが没した後もキエフに住み、キエフの人々から敬意を集めていた。
1097年、アンナの義理の子ウラジーミル(ウラジーミル・モノマフ)が、キエフ大公位にあったスヴャトポルクをキエフに囲むと、アンナとキエフ府主教ニコライは両者の仲裁役を務めた。
1111年10月7日に死去し、聖アンドレイ修道院(ru)に埋葬された[1][2]。なお修道院の典院は、義理の娘のアンナ(ru)であった。
子女
出典
参考文献
- 中沢敦夫「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(1) ―『原初年代記』への追加記事(1110 ~ 1117年)」富山大学人文学部紀要第61号、 2014年8月