アンデシュ・ペル・ヤリード(Anders Per Järryd, 1961年7月13日 - )は、スウェーデン・(リドシェーピング)出身の元男子プロテニス選手。1980年代から1990年代前半にかけて活躍し、スウェーデンの男子プロテニス界の最盛期をリードした選手のひとりである。ヤリードは優れたダブルス選手として、男子ダブルスですべての4大大会でのタイトルを獲得する「(キャリア・グランドスラム)」を達成した。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス8勝、ダブルスで4大大会「8勝」を含む59勝を挙げた。
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基本情報 | ||||
フルネーム | Anders Per Järryd | |||
国籍 | スウェーデン | |||
出身地 | 同・リドシェーピング | |||
生年月日 | 1961年7月13日(61歳) | |||
身長 | 180cm | |||
体重 | 70kg | |||
利き手 | 右 | |||
ツアー経歴 | ||||
デビュー年 | 1980年 | |||
引退年 | 1996年 | |||
ツアー通算 | 67勝 | |||
シングルス | 8勝 | |||
ダブルス | 59勝 | |||
生涯通算成績 | 1002勝503敗 | |||
シングルス | 396勝260敗 | |||
ダブルス | 606勝243敗 | |||
生涯獲得賞金 | 5,371,067 アメリカ合衆国ドル | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | ベスト8(1987・88) | |||
全仏 | 4回戦(1984・85) | |||
全英 | ベスト4(1985) | |||
全米 | ベスト8(1985) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | 優勝(1987) | |||
全仏 | 優勝(1983・87・91) | |||
全英 | 優勝(1989・91) | |||
全米 | 優勝(1987・91) | |||
優勝回数 | 8(豪1・仏3・英2・米2) | |||
国別対抗戦最高成績 | ||||
デビス杯 | 優勝(1984・87) | |||
キャリア自己最高ランキング | ||||
シングルス | 5位(1985年7月22日) | |||
ダブルス | 1位(1985年8月12日) | |||
獲得メダル | ||||
■テンプレート ■プロジェクト テニス |
経歴
1980年にプロ入り。1981年から男子テニス国別対抗戦デビスカップスウェーデン代表選手になる。1983年全仏オープン男子ダブルスで、ヤリードは同じスウェーデンの(ハンス・シモンソン)とペアを組み、決勝でマーク・エドモンドソン/(シャーウッド・スチュワート)組を破って初優勝した。1984年後半から、ヤリードはダブルスでステファン・エドベリとペアを組む機会が多くなる。同年暮れの12月16日-18日、(デビスカップ1984)決勝の対アメリカ戦が地元スウェーデンで行われた。ヤリードとエドベリは、第3試合のダブルス戦でジョン・マッケンロー/ピーター・フレミング組に勝ち、スウェーデン代表は(1975年)以来9年ぶり2度目のデビスカップ優勝を飾った。マッケンローとフレミングは長年アメリカ代表の「無敗ペア」であったが、ヤリードとエドベリにデビスカップダブルス戦の連勝記録を止められ、2人のペアの記録は「14勝1敗」で止まった。
1985年にヤリードはシングルスでも成績を伸ばし、ウィンブルドン選手権で初の準決勝に進出した。ヤリードを準決勝で破ったボリス・ベッカーは、この大会の初優勝で「17歳7ヶ月」の大会最年少優勝記録を樹立する。続く全米オープンでは、ヤリードはマッツ・ビランデルとの準々決勝を途中棄権した。2年後の1987年、ヤリードは4大大会男子ダブルスで年間3冠獲得を達成した。全豪オープンと全米オープンではステファン・エドベリと組んだが、途中の全仏オープンではロバート・セグソと組んでいる。セグソと組んだ全仏オープン決勝では、地元フランスのヤニック・ノア/アンリ・ルコント組を2セット先取されてから逆転し、続く3セットを連取して6-7, 6-7, 6-3, 6-4, 6-2の逆転勝利を収めた。この年に唯一ダブルス優勝を逃したウィンブルドン選手権では、ヤリードとエドベリは準決勝でエミリオ・サンチェス/(セルヒオ・カサル)組に敗れた。1987年度のヤリードは、ダブルスで4大大会3冠を含む年間8勝を記録した。
1988年ソウル五輪は、オリンピックテニス競技が復活し、プロ選手の出場が認められた歴史的な大会である。ヤリードはオリンピックのスウェーデン代表選手として初参加し、シングルスは3回戦で敗退したが、エドベリとのダブルスで銅メダルを獲得した。1989年から、ヤリードは大半のトーナメントでジョン・フィッツジェラルドと組むようになる。ついに1989年ウィンブルドン選手権で、ヤリードはフィッツジェラルドとのペアで初優勝を飾り、「キャリア・グランドスラム」達成者の1人となった。
30歳を迎えた1991年、アンダース・ヤリードはフィッツジェラルドとのペアで全仏オープン・ウィンブルドン・全米オープンに3連勝を成し遂げ、自身のキャリアで2度目の4大大会ダブルス年間3冠獲得を達成した。しかし、ヤリードとフィッツジェラルドは1992年全豪オープンで3回戦敗退に終わり、4大大会ダブルス4連勝を逃してしまう。1993年全豪オープンでは、このペアで決勝に進み、ヤリードにとってはステファン・エドベリと組んだ1987年以来6年ぶり2度目の全豪決勝の舞台に立ったが、ここでも準優勝に終わった。結局、ヤリードはフィッツジェラルドとの同一ペアによるキャリア・グランドスラムを果たせなかった。
ヤリードは現役を引退する1996年まで、スウェーデンを代表するダブルス選手として精力的な活動を続けた。彼と同じ年に、ステファン・エドベリも30歳で現役引退を表明し、スウェーデンの男子テニス界の黄金期が幕を閉じた。
4大大会ダブルス優勝
ダブルス成績
大会 | 1981 | 1982 | 1983 | 1984 | 1985 | 1986 | 1987 | 1988 | 1989 | 1990 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1995 | 1996 | SR |
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全豪オープン | 1R | A | 2R | A | A | NH | W | QF | QF | A | 3R | 3R | F | 3R | A | A | 1 / 9 |
全仏オープン | A | 1R | W | 3R | SF | F | W | F | SF | 1R | W | 2R | 3R | 2R | 3R | A | 3 / 14 |
ウィンブルドン | A | 2R | SF | 3R | 3R | 1R | SF | F | W | 1R | W | 2R | 2R | 1R | 1R | 1R | 2 / 15 |
全米オープン | A | A | 2R | F | 2R | 2R | W | 3R | SF | QF | W | 3R | A | 1R | 3R | A | 2 / 12 |
SR | 0 / 1 | 0 / 2 | 1 / 4 | 0 / 3 | 0 / 3 | 0 / 3 | 3 / 4 | 0 / 4 | 1 / 4 | 0 / 3 | 3 / 4 | 0 / 4 | 0 / 3 | 0 / 4 | 0 / 3 | 0 / 1 | 8 / 50 |