アマル・シング(Amar Singh, 1559年3月16日 - 1620年1月26日)は、北インドのラージャスターン地方、メーワール王国の君主(在位:1597年 - 1620年)。
生涯
1559年3月16日、メーワール王国の君主プラタープ・シングの息子として、チットールガルで誕生した[1][2]。
1597年1月19日、父王プラタープ・シングが死亡したことにより、アマル・シングが王位を継承した[1][2]。アマル・シングは父王プラタープ・シングの意志を引き継ぎ、その死後もムガル帝国のとの戦いを続けた。
そうしたなか、1605年に帝国の皇帝アクバルが死亡し、息子のジャハーンギールが手打言いを継承した。ジャハーンギールは服属しないメーワール王国に対して、即位後すぐに次男パルヴィーズ率いる軍勢を派遣した[3]。だが、この遠征は失敗に終わったため、1608年と1609年の2度にわたる遠征軍を派遣した。これらの遠征は皇帝の3男フッラムによって行われ、2度目の遠征は不首尾であったが、3度目の遠征は成功した[3]。
アマル・シングはは遠征軍による王国中の略奪に疲弊し、1614年2月になってようやく帝国に服属した[4][5]。ジャハーンギールは父アクバルが占領したチットールガル城が破壊されたままであることを条件に返却し、メーワール王国の半独立を認めた[5][6]。ここに(第一次ムガル・ラージプート戦争)は終結した。
1620年1月26日、アマル・シングはウダイプルで死亡した[1][2]。死後、息子のカラン・シング2世が王位を継承した。
脚注
参考文献
- (アンドレ・クロー) 著、杉村裕史 訳『ムガル帝国の興亡』法政大学出版局、2001年。
- 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。