アッシュルバニパルのライオン狩りはニネヴェの北西宮殿で発見された(アッシリアの宮殿レリーフ群)の中にある有名な一連のレリーフである。現在では大英博物館のroom 10aに展示されている。これらは「アッシリア美術の最高傑作」と広く認められている[1]。これらのレリーフは狩場で行われたアッシュルバニパル(在位:前669年-631年)の形式化された儀式としての「狩猟」の場面を描いており、檻から放たれたアジアライオンをアッシュルバニパルが矢、槍、あるいは剣で狩っている[2]。一連のレリーフは前645年-前635年ごろに作成され、元来は宮殿の周囲で異なる層序を構成していた。恐らくかつては宮殿全体の色鮮やかな装飾の一部として塗装されていたものと考えられる[3]。
ライオン狩りのレリーフを刻んだ(オーソスタット)はニネヴェの北西宮殿で1852-1854年にかけて(ホルムズド・ラッサム)と(ウィリアム・ロフタス)によって発掘され、大部分が大英博物館に送られた[4]。以来、同博物館における目玉展示物として一般市民や歴史学者から共に人気を集めている。ライオンの写実性は常に賞賛されてきたが、現代の観覧者が感じ入りがちな哀れみは恐らくアッシリア人たちの感覚とは異なっている。人物像のほとんど(特に複数回登場する王)は横向きの定形化されたポーズで描かれているが、ライオンは命ある間、死にゆく様、そして死後とバラエティに富んだ姿勢をとっている[5]。
この浮彫はアッシリアの宮殿浮彫の250年の歴史の中でも後期の時代のものであり、衰退期に入る前の最も発達した最高級の作例である[6]。アッシュルバニパルは最後の偉大なアッシリア王であり、彼の治世の後、新アッシリア帝国はその子孫たち、将軍たち、帝国各地の反乱による(記録の乏しい)内戦の時代に入った。前612年までに、恐らくはこれらの彫刻が作られてから25年ばかりで、アッシリア帝国は瓦解しニネヴェは略奪され火を放たれた[7]。
アッシリアのライオン狩り
これらのレリーフより1000年以上前から、メソポタミアではライオン狩りは王族の権利であったと見られ、王たちによるライオン狩りはしばしば美術表現にみられる。恐らくは宗教的な活動であったかもしれない。ある(粘土板文書)は、ライオンが地方の家(a house in the provinces[訳語疑問点])に入ると罠によって捕らわれ、船で王の下に運ばれたと記録している。今日インドでのみ僅かに生き残っているアジアライオンは一般にアフリカのライオンに比べて体格が小さく、レリーフに描かれているように至近距離で仕留めることは不可能な芸当ではなかった。剣が使われる時は、比較的近年まで行われていたのと同じように、「狩り手が左腕に大量のヤギの毛か毛皮(tent-cloth[訳語疑問点])を巻いて」ライオンの攻撃を誘い、右手の剣でライオンを殺したのかもしれない。ただし巻きつけた毛または毛皮による防御の場面は描かれることがない[8]。矢でライオンを射るのはより一般的であり、矢でライオンの動きが止まらず跳躍してきた場合、王の傍らに控える狩手(huntsmen)が槍を用いた[9]。
新アッシリア時代初期の王アッシュル・ナツィルパル2世(在位:前883年-前859年)が約200年前にニムルドの宮殿に別のライオン狩りの浮彫を作らせており、碑文で「ニヌルタ神とネルガル神が我が神権(priesthood)を愛しこの平野の野獣を余に賜って狩りを命じた。30頭の(象)を罠にかけ殺した。257頭の野牛を我が武器で戦車から攻撃し、しとめた。370頭の大獅子を狩槍をもって殺した」(前865年ごろ)と誇っている[10]。アッシュル・ナツィルパル2世は戦車からライオンに矢を放つ姿を描かれており、恐らくはこれが開けた地形での、あるいは狩場(arena)でも、より伝統的な狩猟法であったのであろう[11]。
後の時代のレリーフ群では捕らえられたライオンが兵士たちが組んだ(盾壁)に包囲された中に放たれている。いくつかのレリーフでは木製の檻(crates)からライオンが放たれる様が描かれている。檻の上には小さな木箱があり、その中にいる従者が檻の門を引き上げてライオンを放った[9]。狩猟の対象とされたにも拘らず、(メソポタミアライオン)は1918年まで野生で生き残っていた[12][13]。
ライオンは時に飼育下で育てられたこともあった。アッシュルナツィルパルはある碑文で彼の動物園を誇り、冒頭は次のように始まっている。「我が断固たる心をもって、余は15頭のライオンを山々と森で捕らえた。余は50頭のライオンの幼獣を連れ去った。余はこれらをカルフ(ニムルド)へと、我が地の諸宮殿へと追い込み、檻に入れた」[14]。
宮殿のレリーフ
映像外部リンク | |
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Assyrian Art: Ashurbanipal Hunting Lions, (Smarthistory) |
ライオン狩りの場面を描いたレリーフ群が20余りアッシリアの宮殿に残されているが[15]、ほとんどのものはアッシュルバニパルのレリーフよりも遥かに簡単な印象を与える。新アッシリア時代の宮殿はこれらのレリーフのように平板の上に(大部分は石膏、アラバスターで作られていた。)非常に浅い彫りで作られたレリーフで極めて広範に装飾が施されていた。これらは特に北部イラクで数多く見られる。ライオン以外の動物の狩猟場面もあり、またこの種のレリーフの物語の主たる主題は王の遠征と宮殿の造営であった。他に、王の姿、宮廷、(有翼射手)、そして守護者である小神(protective minor deities)(ラマス)を描いたレリーフもある。
宮殿の浮彫の大半は複数の部屋が連続した大きな広間の壁を装飾していたものであった。しかし、北宮殿で発見されたこのアッシュルバニパルのライオン狩りの場面は2つ以上のスペースに跨っており、大部分は比較的狭い通路にあって大きな部屋へと続いている。このレリーフは完全ではない。いくつかは元来は上層階にあったが、上階にあったものは発掘される以前に地上に落下していた[4]。元々の配置は規模において現在の展示状況とあまり変わらないが、天井はもっと高かった。同じ場所には雄ライオンと牝ライオンが青々とした宮殿の庭でくつろぐかなり珍しいレリーフがあった。このライオンのうたた寝(shady idyll)のレリーフから、恐らく時にライオンが宮殿のペットとして飼われていたことを知ることができる[16]。
場面
同じ宮殿にある、遠征の最中の場面を描いたようなアッシリアのレリーフは大部分が上下二つの層に分けられているが、ライオン狩りのレリーフのいくつかは平板の下から上まで、全面を占めている[4]。上階にあったレリーフは3層で場面を描いている[1]。地面の線(Ground-lines)は明確に示されているが、これは常にそうであるとは限らない。事実、何匹かのライオンはより大きな場面の一部を構成する場合、個々に地面の線が与えられている。「並々ならぬ巧妙な観察力(extraordinary subtlety of observation)[9]」を持って描かれた動物たちと同様に、王の装束の細部の彫刻も特に素晴らしい出来である[4]。レリーフの作成の終盤になって、単一の場面を構成するほとんど全てのライオンの尻尾が短く修正されている[17]。
単独の層で構成された諸場面は廊下の片側で3つの大きな場面を表示するのに使用されている。盾壁の狩猟場(arena)が描かれ、群衆が視野や安全を求めて木が生い茂る丘の上に登っている場面。丘の上には小さな建物があり、この建物にも王のライオン狩りの場面が描かれている。アッシュルバニパルが戦車を準備し、御者が馬を取る場面。狩人(Huntsmen)が大型の(マスティフ)犬と槍を携え、狩場で盾壁にライオンが近づくのを待ち構えている場面である。王が戦車上で狩りを行う大型の場面には総計18匹のライオンが描かれており、大半は絶命しているか負傷している。廊下の反対側にも同じ場面があり、戦車による狩りは2度描かれている[18]。別の一群(一部は元来、上層階や小さな「private gate-chamber」などにあった[19])のレリーフは間に平らな区切り線が引かれて3層に分けられており、人物像は遥かに小さい。レリーフの2つのグループの間では一部の場面が不正確に繰り返されている。檻から放たれたライオンはアッシュルバニパルに向けて突進し、またアッシュルバニパルは絶命したライオンの体を集めて(酒を注いでいる)。この場面を描いたグループの一部はパリにあり、他のグループは図版に記録されているが失われた。これらの中にはアッシュルバニパルが野生のライオンや他の動物を狩る場面が描かれており、王に向いたガゼルが打たれ、弓矢によって穴に落とされている[20]。ある場面では同じライオンが近接して3度描かれている(檻から出される姿、アッシュルバニパルにっ向けて突進する姿、アッシュルバニパルに向けて跳躍する姿)。これらは現代のコミック・ストリップを彷彿とさせる[21]。
アッシュルバニパルのライオン狩り。前7世紀、イラク、ニネヴェにある北宮殿で発見。ペルガモン博物館収蔵。
馬上からライオンの頭を槍で突き刺すアッシュルバニパル。
従者によって檻から放たれるライオン
負傷したライオン
負傷したライオン
絶命したライオン
アッシュルバニパルの戦車の背後で倒れるライオンたち
ライオンの死体を運ぶ狩り手(Huntsmen)
戦車を引く馬
木の生い茂る丘。右側に盾壁が敷かれている
関連項目
- イシュタル門
- (バビロンのライオン (像))
脚注
- ^ a b Reade, 73
- ^ Honour & Fleming, 76–77; Reade, 72–79, 73; Frankfort, 186–192; Hoving, 40–41
- ^ Honour & Fleming, 77
- ^ a b c d Grove
- ^ Honour & Fleming, 76–77; Reade, 73
- ^ Frankfort, 189
- ^ Reade, 90–91
- ^ Reade, 72–73, 76–77; Frankfort, 187, 引用「リード(Reade)は恐らくライオンは王に到達した段階で既に相当な重症を負っていたと強調している。フランクフォート(Frankfort)は腕に毛・毛皮を巻き付ける手法が実際に行われたと推測しているが、図像表現上には現れない。
- ^ a b c Frankfort, 187
- ^ Reade, 39
- ^ Frankfort, 189, Reade, 39
- ^ Reade, 79
- ^ Hatt, R. T. (1959). The mammals of Iraq. Ann Arbor: Museum of Zoology, University of Michigan
- ^ Oates, 34
- ^ Hoving, 40
- ^ Frankfort, 186, Reade, 72
- ^ Reade, 73–74
- ^ Reade, 74–75
- ^ Reade, 74–75, 74 quoted
- ^ Reade, 75–79
- ^ Frankfort, 187; Reade, 76; Honour & Fleming, 76–77
参考文献
- Frankfort, Henri, The Art and Architecture of the Ancient Orient, Pelican History of Art, 4th ed 1970, Penguin (now Yale History of Art), ISBN (0-14-056107-2)
- "Grove": Russell, John M., Section 6. "c 1000–539 BC., (i) Neo-Assyrian." in Dominique Collon, et al. "Mesopotamia, §III: Sculpture." Grove Art Online, (Oxford Art Online), Oxford University Press, accessed 19 November 2016, subscription required
- (Hugh Honour) and John Fleming, A World History of Art, 1st edn. 1982 (many later editions), Macmillan, London, page refs to 1984 Macmillan 1st edn. paperback. ISBN (0-333-37185-2)
- (Hoving, Thomas). Greatest Works of Western Civilization, 1997, Artisan, New York, ISBN (978-1-885183-53-8)
- Oates, D. and J. Oates, Nimrud, An Assyrian Imperial City Revealed, 2001, London: British School of Archaeology in Iraq, full PDF (332 pages) ISBN (978-0-903472-25-8)
- Reade, Julian, Assyrian Sculpture, 1998 (2nd edn.), The British Museum Press, ISBN (978-0-7141-2141-3)
- (Wilson, David M.); The British Museum; A History, 2002, British Museum Press, ISBN (0-7141-2764-7)